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<a href="http://secret.ameba.jp/frederic-chopin/amemberentry-12004812082.html">『経済学入門 / 林直道』を読了①</a>

第Ⅰ篇 資本主義経済のしくみ

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 資本主義の経済は、過去の前近代的社会の経済とは異なって、人身的隷属や強制労働によってではなく、独立した人格の自由な契約と平等な交換取引とから成り立っている。それにもかかわらず右のような極端な経済的不平等が生じるのは、まことにふしぎなことといわなければならない。

 第二に、資本主義経済こふしぎな現象として、周期的に襲来する経済恐慌と不況がある。

天災やなにかで物が生産し足りないから欠乏がおこるのではなく、物をたくさんつくりすぎたがために人々が物に欠乏するというのは、どう考えてもふしぎであり、逆説的な現象というほかはない。

 以上、富の偏在と所得のおどろくべき格差、数年おきにやってくる経済不況の嵐、インフレーションの慢性化、戦争や軍事化の経済的内幕、等々、思いつくままに資本主義の不合理、ふしぎな現象をあげてみた。

 われわれは資本主義の達成した偉大な歴史的進歩(生産力の発展と、人間の人身的隷属の廃止=形式的に平等な人権の確立)をみとめたうえで、それのもつ歴史的限界を経済学的に明らかにしなければならない。

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第1章 商品と価値

 資本主義経済は、歴史的にいって過去の社会にふくまれていた商品経済が発展してできたものであるうえに、でき上がった資本主義経済もまた商品を構成要素(原基形態)として成り立っており、こうして資本主義経済にとっては、歴史的にも論理的にも、商品というものが出発点となっているからである。

 さて、その商品とはなんだろうか。商品とは、使用価値および価値という二つの内容をもったものである。

 人間のいろいろな欲望を満たすという物の性質、あるいはそういう性質をもった物のことを、使用価値という。使用価値のなくなったものは商品にはならない。

 商品とは、市場で、ほかの商品と交換される物である。このばあい、ほかの商品と一定の割合で交換されるその交換比率を交換価値という。

 商品生産が発達すると、交換価値は貨幣であらわされ、価格というかたちをとる。

商品が価格をもっているのは、その商品にそれだけのねうちがあるからで、価格とはこの商品のねうちをあらわしたものである。このねうちが価値である。

 価格は価値をあらわしたものであるが、量的にいつでもぴたりと価値の大きさそのままをあらわしているとはかぎらない。価値を中心にしながらも、需要と供給、すなわち買い手と売り手の力関係が変化するのにおうじて、市場での価格の大きさが変動するからである。需要のほうが多ければ。市場価格は価値よりも高く決まり、供給のほうが多ければ、市場価格は価値よりも下がる。

 この商品のねうち=価値の中身は何であろうか。これが経済学の出発点において、いちばん大切な問題である。常識の世界では、ある商品のねだんがほかよものよりも高いとすれば、それはその商品がうまいから、美しいから、丈夫だなら、等々、つまり使用価値が大きいからだろう、くらいに考えている。ところが本当はこの常識的な考えはまちがいなのである。

 たしかに、人は、ある物の使用価値が他の物よりも大きく、したがってわれわれの欲望を、満たす度合い(効用)が大きくなければ、高いねだんを払いはしない。その意味で使用価値は商品が価値をもつための前提となっている。けれども商品の価値じしんは、使用価値とは全然べつものなのである。そのことは、つぎの二、三の例を考えてみれば、わかる。

 もしマッチがなかったら、火をつけるとき、ずいぶん苦労する。

マッチの使用価値は大きいのに、価値のほうはべらぼうに小さい。

 つぎの例。技術がすすみ、生産力が発達すると、商品のねだんが安くなる。

テレビ一台の価値は小さくなった。ところが、使用価値のほうは品質改良、性能向上でかえって大きくなった。価値と商品価値とは、逆にうごいている。

 もう一つの例。価格というのは、数字だから、どんな商品でも、種類のいかんをとわず、たがいに価格を比較し、価値の大きさをくらべることができる。100グラムあたり、サンマ100円、タイ500円といえば、タイの価値はサンマの五倍とキッチリ計算できる。ところが、使用価値およびそれにもとづく効用のほうはそうはゆかない。いったい、タイはサンマよりも五倍うまいなんてことがいえるだろうか。

まして品種のかけはなれた商品になると、てんで比較できない。

人によって、また同じ人でも時と場合によって、必要とする使用価値がちがってくるだろう。だから、もし使用価値や効用の大きさで、さまじまの商品をねぶみするとなると、とても社会全体の一致した客観的な秤量など、できるはずがない。

 ところが、そんな各人の主観的なねぶみはおかまいなしに、市場では商品は一定の客観的な価値をもっている。このことは、価値が、使用価値や効用とちがったべつの原理で決まるものだということを示しているわけである。

 経済学は、人間の労働こそが価値の中身だということを発見した。人間の労働の凝りかたまったもの、労働の結晶体、それが商品の価値なのである。

 価値の実体が労働であることはつぎのようにして証明される。――二つの商品がひとしい物として交換されるのは、この二つの商品が、どちらも、なにか共通の物をひとしい分量だけふくんでいるからである。ではこの共通物とはなんであろうか?それは使用価値ではない。なぜなら使用価値という点では二つの商品はまったくちがった物だからである(ちがった物でなけれはわそもそも交換が生じない)。そこで二つの物から使用価値をとりのぞいてみよう。すると、両方の物に共通性として残るのは、どちらも労働の生産物だということ、人間の労働の結晶であるということだけである。商品に対象化されている人間の労働、これこそが価値の実体なのである。

 価値の中身が労働であるということをうらづけるのは次の事実である。それは《商品として売られているものは、みな、それをつくるのに、なんらかのかたちで労働がかかわっているのに、これに反して、労働を要していないもの、労働の生産物でないものはどんなに使用価値が多くても、価値をもっていない。だから商品となっていない》ということである。

 一例として空気を考えてみよう。

空気は人間にとってなによりも大切な使用価値である。それなのに人間は、空気を吸うのに代金を払う必要はない。なぜか。空気は天然自然にあるもので、労働の生産物ではなく、したがって価値をもたぬからである。ところが同じ物でも労働の生産物となると、価値をもち、商品として売られる。酸素ボンベの酸素は、工場で、人間の労働によってつくられたものだから、価値をもっており、カネを払わないと手に入らない。魚でも、養魚場の魚はいけすをつくり、エサをあたえるなど、労働が加えられているから、価値をもっている。だから、他人がこれをもらってゆくと、ドロボウになる。けれども、海に泳いでいる天然の魚は価値をもっていない。労働の生産物ではないからである。この魚が、マーケットにあらわれると、値札をつけ、価値をもつようになっている。それは、漁獲する労働、とった魚を運搬する労働などが、魚にこびりつき結晶しているからである。

 人間は、土地すなわち天然資源を素材として、これに労働をくわえ、人間の必要とするさまざまの使用価値をつくりだし、われわれの生活をゆたかにしてゆくが、この労働によって同時に価値をもつくりだしている。

 この同じ労働のうちの、使用価値をつくりだすように働く面を具体的有用労働(または具体的労働)といい、価値をつくりだすように働く面を抽象的人間労働(または抽象的労働)とよぶ。それは二つのべつべつの労働ではなくて、同じ一つの労働の二つの面である。

抽象的労働というと、なにか観念のなかだけにしか存在しないもののように思われるかもしれないが、そうではなくて、あくまでも現実の労働そのものの一つの側面を意味している。すなわち、すべての労働に共通に含まれているところのもの、かんたんにいえば労働一般、これが抽象的労働なのである。

 商品の価値の実体が対象化された労働であるとすると、価値の大きさは、この労働の分量で決まることになる。そして労働の分量とは、労働の時間的継続すなわち労働時間であらわされる。

 タイがサンマよりも五倍も高いのは、

同じ量の労働をしても、平均してタイはサンマの五分の一しか捕れず、ひたがって同じ量のタイはサンマの五倍の労働をふくんでいるからである。

――テレビが現在の価格に直してに210万円から16万円にも下がったのは、技術の進歩と大量生産方式で、一台あたりつくるのに必要な労働の量が約十三分の一ですむようになったからである。このように、同じ物でもそれをつくるのに必要な労働が節約されると、価値は小さくなる。――金やダイヤモンドは高い。しかし、もしも、わずかの労働で掘り出す技術が発明されたり、または成分・光沢などまったく同じ性質をもったものが少量の労働で人工的に製造できるようになれば、金やダイヤモンドの価値は小さくなり、ねだんはぐんと下がってしまうことは確実である。

 商品の価値の大きさも個々の生産者のついやした個別的な労働時間で決まるのでなく、その商品を生産するのに社会的に必要な労働時間によって決定される社会的必要労働時間とは、生産条件(設備など)、労働熟練度、および労働強度(労働密度)の社会的平均度をもって、ある商品を生産するのに必要な労働時間のことである。

 簡単労働は、普通の人間ならばだれにでもできる単純な仕事のことである。これにたいして複雑労働は、特別に訓練を受けて習得しなければできない高等な労働のことである。複雑労働は同じ時間内に単純労働よりも多くの価値をつくりだし、簡単労働の何倍分としての意義をもつ。

 商品の価値の実体は労働であるとする理論を《労働価値説》という。

 商品生産のもとで作用する経済法則を価値法則とよぶ。価値法則とは、商品の生産に社会的に必要とされる労働時間によって商品価値が決定され、商品の交換はこの価値を基準としておこなわれるという法則である。

 商品生産の世界は、個々の商品生産者が、生産手段の私有にもとづいて、てんでバラバラに生産をおこない、生産物を市場にもちだす。そういう無政府的な、無計画な活動の総和として形成される。こういう状態のもとでも、社会的生産がおこなわれている以上は、それを統一する法則的な力がはたらかないわけにはゆかない。価値法則がそれにあたるのであって、商品生産の世界をおそう恐慌は、この価値法則が強力的に自己を貫徹してあらわれたものである。

 さらに、価値法則は、商品生産者(=小商品生産者、すなわちまだ資本主義になっていない単純な商品生産者)を分解させる法則である。――商品生産はきびしい競争の世界である。

社会の平均水準よりもすぐれた設備をもっている者は、この社会的必要労働時間よりも少ない時間で商品をつくることができる。かれはこの商品の価値よりもずっと少ない労働量しか要しないから、その差額だけとくをする。

これと反対に、社会的平均以下の設備しかない者は、商品価値よりもたくさんの労働を必要とするから、そのひらきだけそんをする。

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参照→【転記】+科学の方法+ 抽象化

労働の抽象化

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第2章 貨幣

 商品の価値というものは、いわば一種の社会的な関係である。だから、それは商品のからだをいくらひねくりまわしても、あるいは顕微鏡でのぞいてみても、見えるシロモノではなかった。ところが、このように商品のなかに内在化し、かくれている価値が、商品の交換関係の発展とともに、しだいにその姿を外にあらわしてくる。

 一定量の米と毛糸をつきあわせることによって、米の価値が毛糸という使用価値の姿をかりてあらわされるのである。

 毛糸も靴もナイフも金も、すべての商品の価値が、米という同じ一つの使用価値の姿をかりてあらわされ、それらすべてのものの価値の大きさが、米の分量という共通のものさしで測られている。このように、全商品の価値を映しだす役を演じる商品(いまの例では米)のことを一般的等価物という。

 生産力が発達して、金や銀が生産されると、一般的等価物の役割は、金・銀にうつってしまった。このように、一般的等価物の役割が金・銀という特別の商品に固定したものが貨幣である。金・銀は、独特のあやしい美しさをもち、人の心をひきつけずにはおかない商品(労働生産物)であるばかりでなく、家畜のようにエサを食べさせる必要はないし、ほおっておいても腐らない。どこを切っても等質で、いくらでも分割できる。それに金・銀はほりだしから精錬までばく大な労働がかかるから、少ない分量の金・銀でも多くの価値をふくんでいる。

 いまや、どんな商品でも「その価値は金でいえば何グラムにあたる」というようにして、価値の大きさを共通のものさしではかることができる。

こうして価格というものが生まれる。

 金・銀が貨幣の役を独占できたのは、金・銀が金属として優秀な性質をもつからであるが、より根底的には、それが労働生産物だからである。ちょうどそれ自体重さをもつ物だけが重さを度量する分銅として役立つように、それ自体労働生産物であるものだけが貨幣として労働生産物の価値をはかることができる。

貨幣の正体は「価値」そのものである。

 紙幣はどれだけ発行されようと、その額面とかかわりなしに、流通に必要な貨幣量しか代表できない。だから、政府が財政支出をまかなおうとしてジャンジャン紙幣を刷り、かりに流通必要貨幣量の二倍の額だけ発行したとしよう。このばあいには、紙幣は額面の半分に減価してしまう。ぎゃくにいうと物価は二倍になる。このような流通必要量を上回った通貨の増発による紙幣の減価(物価の騰貴)がインフレーションである。

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参照→【転記】インフレ政策&アベノミクス

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第3章 労働力の価値と使用価値

 現代資本主義社会における大資本家の大きなもうけはどこから出てくるのだろうか?

 ふつうの常識でいえば、資本のもうけは、商品を価値どおりの価格で仕入れてそれを価値以上の高い価格で売るか、あるいは商品を価値以下の安い価格でしいれてそれを価値どおりに売るか、あるいはその両方の手をつかうことによって、得られるものだと思えるであろう。ところが、じつは、これでは本当の説明にはなっていない。というのは、ある資本家が安く仕入れて、あるいは高く売って、もうけたときには、取引相手の資本家が安く売って、あるいは高く買わされてそんをしているはずで、社会全体、資本家全体では差引ゼロ、何ももうけはなかったことになるからである。

理論としては、まず商品は等価で交換されると前提したうえで、しかももうけが生まれるというしくみを明らかにすることが必要なのである。

 資本主義社会をかたちづくる基本的な階級は資本家と労働者とである。

資本主義経済の特徴をひとことでいうと、資本家が生産手段を所有していて、労働者をやとって働かせるような経済のしくみ、といえる。労働者は生産手段をもっていない、つまりプロレタリア(無産者)であるから、生活資料を買うのに必要な貨幣を手に入れるためには、大量の生産手段の所有者である資本家にやとわれるほかに道がない。

 労働者が資本家にやとわれるとき、じつは、かれは自分の労働力を資本家に売っているのである。

かんたんにいえば、労働力とは「労働能力」のことである。労働者は、ほかに売るものがないので、この労働力を売って、貨幣をえている。資本家のほうからいえば、労働者から労働力という商品を買いとっていることになる。労働者が資本家にわたす「履歴書」は、この労働力という商品の内容紹介、効能書にあたる。このように、資本主義社会では、労働力が商品として売買されているのである。

労働者は労働力を売るといったが、もちろんこれは奴隷の売買とは性質がちがう。奴隷のばあいは、奴隷自身が、丸ごと売られてしまう。そのため、奴隷の人格なんてものは認められず、物として、役畜なみに扱われた。しかし、労働者はそうではない。労働者は自分自身を、丸ごと売ってしまうのではない(それなら人身売買)。労働者自身が売り主になって、自分の持ち物である労働力を(それも時間決めで)売るだけである。これは純然とした、商品取引であって、売り手(労働者)と買い手(資本家)とは、法律的にも、人格上でも、まったく対等である。

労働者は資本家のために労働力を支出し労働するかわりに、資本家から賃金をうけとる。では賃金とはなんだろうか?賃金とは労働力という商品の価格なのである。

常識では賃金とは労働にたいする報しゅう、"労働"の価格だとおもわれている。しかし、げんみつにいうと、これはまちがいである。賃金とは労働力の価格なのである。

 では賃金、労働力の価格は、なにによって決まるか?

 ここで、まえに商品の価値と価格について述べたことを復習しよう。

――ある商品がどれだけの大きさの価値をもっているかは、その商品をつくるのにどれだけの分量の労働が社会的に必要であるかによって決まる。そして、この価値を中心としながら、そこへ需要と供給との状態、あるいは売り手と買い手との力関係が働いて、商品の具体的な市場価格が決まる。

 労働力商品についてもこれと同じである。「労働力の価値」を中心として、これに売り手(労働者)と買い手(資本家)との力関係が加わって、労働力の価格が決まる。

むずかしいのは、労働力の価値である。

 ――《商品の価値の大きさは、その商品を生産するのに社会的に必要な労働の分量で決まる》。

 これを労働力の価値にあてはめてみよう。――《(労働力の)価値の大きさは、(労働力を)生産するのに社会的に必要な労働の分量で決まる》となる。

 この「労働力を生産する」とはいったいどういうことか?

労働力の「生産」は、じつは労働者が生活しているなかでひとりでにおこなわれているのである。

 「労働力を生産する」ということには二つの意味がある。第一は、労働者本人が、毎日の疲れをなおし、生命エネルギーを回復し、日々新たに労働能力をつくりだすことである。こうするためには労働者は衣・食・住の糧(生活資料)を手に入れなければならない。

 第二の意味は、労働者が家庭で次の世代を生み、子どもから一人前の労働力を備えた人間に育ててゆくことである。そのためには労働者の家庭ぜんぶが生活資料を手に入れて消費できなければならない。

 ――「労働者本人およびその家族が生きてゆくために必要な生活資料、を生産するのに社会的に必要な労働の分量」

もっと短く、ズバリ言うと――《労働者本人とその家族とが生きてゆくのに必要な生活資料、の価値》。

これが労働力の価値の大きさを決めるものなのである。

 労働力の価値のなかから文化的要素のすべてを除去し、その線をこえると人体の再生産さえおぼつかなくなるというギリギリの最低線まで切り下げられたものを労働力の価値の最低限界とよぶ。

 労働力の価値の大きさは、時代によってまた国によって、変化する。

 また労働力の価値を決定する重要な要因は、労働者階級の社会的地位の高さ低さである。労働者階級の社会的地位によって、「労働者とは、ふつうどの程度の生活をするものであるか」という社会的な通念ができ上がり、それによって労働力の価値の水準が決められるからである。

 労働者から労働力という商品を買った資本家は、労働者を生産過程で働かせる。つまり、買った労働力を消費するのである。そうすると、労働という生産的エネルギーが出てくる。労働こそ、労働力商品の使用価値なのである。

 労働こそは、価値の実体であり、価値をつくりだす源であった。だから資本家が、買い入れた労働力を消費する(労働者を働かせる)と、新たな価値がつくりだされ、この新しい価値は、労働力商品の買い手である資本家のものとなる。

 労働力はそれ自身が価値をもった商品である。その労働力を消費すると、また価値が出てくる。

 いま、労働力商品にかんして二通りの価値が問題になっている。この二つの価値の関係がわかればよい。

 一つは、労働力それじしんがもっている価値、すなわち労働力の価値(=労働者とその家族が生きてゆくのに必要な生活資料の価値)。この価値を、資本家は賃金というかたちで労働者に支払う。

 もう一つは、生産過程において労働力が新たにつくりだすところの価値。この価値を、資本家は労働者から受けとって自分のものとする。

 この二つの価値はまったくべつべつの原理で決まる。

 「労働力の価値」のほうは、労働者の生活資料の価値、つまり標準的な必要生活費で決まる。

 「労働力が新たにつくりだす価値」のほうは、生産過程における労働時間の長さによって、決まる。

 だから、その二つの価値の大きさのあいだには、たがいになんの関係もない。そして「自分のもっている価値よりも大きい価値をつくりだすことができる」という点に、労働力のもつ特殊な使用価値がある。

 大昔、生産力の低かった時代には、人類は、必要な生活資料を生産するためにずいぶん長時間の労働をしなければならなかった。ところが、生産力が進歩発達するのにつれて、ますますわずかの労働時間で生活資料を生産できるようになった。こんにちの資本主義は非常に生産力が高いから、労働者の家庭で消費されている一日分の生活資料を生産するには、ほんの数時間の労働でこと足りる。いいかえると、労働者は、ほんの数時間働くだけで、自分の労働力の価値(生活資料の価値)に相当するだけの価値を、りっぱに生産してしまっているのである。経済統計学者の計算によると、現在の日本では、労働者の賃金に相当するだけの価値は、だいたい一日2―3時間の労働でらつくりだせているといわれている。

 資本家としては基準労働時間をできるだけ長くしたい。労働者としてはできるだけ短くしたい。だから労働時間がいくらになるかということは、まったく労資の力関係によって決まるものである。

世界の労働者階級は労働時間短縮のたたかいを、うまずたゆまずくりかえしてきた。

ようやく1919年、ILO(国際労働機関)において八時間労働制条約が採択されたのである。

 しかしこの八時間労働でも、労働者のつくりだす価値は、労働力じしんの価値をはるかに上回っている。前の例で言うと、労働者ははじめの3時間ですでに労働力の価値をうめあわせる価値をだし、あとの5時間には、資本家のもうけとなる余分の価値をつくりだしていることになる。この資本家のもうけとなる余分の価値のことを剰余価値という。

 常識の世界では、搾取が生じるのは、労働者にたいして労働力の価値以下の賃金しか支払われないからだと考えられている。たしかに労働力の価値以下の賃金しか払われなければ、それだけ搾取が大きくなることは当然である。けれども、かりに労働力の価値どおりの賃金が支払われたとしても、なお資本による労働の搾取はおこなわれている。――これが資本主義のしくみだったのである。

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第4章 資本と剰余価値

① 資本主義社会では、労働力(すなわち人間の労働能力)が、商品として売買される。労働力商品も、ほかの商品と同じように、使用価値と価値とをもっている。

② まず労働力の価値とは、労働者とその家族が生活してゆくのに必要な生活資料の価値のことである。この労働力の価値がもとになって賃金が決まるのであって、賃金とは労働力商品の価格のことである。

③ これにたいして、労働力の使用価値とは、労働ということである。ところが労働は価値をつくりだす。労働は価値のみなもとである。だから労働力の消費過程(労働過程)からは、新しい価値がつくりだされる。この価値は、労働力商品の買い手である資本家のものになる。

④ 資本家が手に入れるこの新しい価値の大きさは労働日(一日の労働時間)の長さによって決まるのであって、資本家が支払う労働力そのものの価値(生活資料の価値)の大きさとは関係がない。資本主義社会で決められている一日七時間とか八時間とかいうようなふつうの労働日のもとでは、労働力の価値をはるかに上回るずっと多くの新しい価値がつくりだされている。この差額が剰余価値である。

 剰余価値とは、資本家が労働者から無償で吸いとった価値のことである。

 生産物(商品)の価値の実体は商品に対象化さらた労働であり、この労働の分量によって生産物の価値の大きさが決まる。ところが、この「労働」は、じつはつぎの二つの部分からなっている。

 第一の部分は、その生産物をつくる過程で直接に支出されるなまの労働、たとえば糸についていえば、紡績の段階での労働である。

 生産物をつくるときには、原料や燃料や機械設備など(いまの例でいえば綿花や紡機など)の生産手段が消費されている。これらの生産手段も労働の生産物であるかぎり、それらには労働がふくまれていたはずである。この労働は、とっくの昔に(すなわち糸の生産のまえに、綿花栽培や紡機製造の段階で)すでに価値としてかたまってしまっていたものだから、いわば「過去の労働」である。これが第二の部分である。

消費された生産手段の価値(過去の労働)が新しい生産物のなかへそっくり移しこまれる。そして、生産物の価値の一部として再現することを、価値の移転という。このばあい生産手段の価値の大きさは、ふえもへりもしない。生産手段の価値はそのまま、そっくり移転され、これが生産物の価値の一部分を構成するものとなる。

 これにたいして、なまの労働によって、新しい価値がつくりだされることを、価値の創造という。

 

 生産過程では、(1) 生産手段にふくまれていた古い価値が生産手段のしょうひにつれて生産物のなかへそっくり移しこまれ(価値の移転)、同時に、(2) 新しい価値がつくりだされて生産物につけくわえられる(価値の創造)。

 生産物の価値は、(1) 消費された生産手段の価値(移転された価値)プラス、(2) 新たにつけくわえられた価値(創造された価値)、この二つの合計から成るわけである。

資本家が労働者にたいしてこの労働力の価値を支払っている以上、資本家と労働者とのあいだの関係は、価値法則にもとづいた関係であり、形式上は等価交換だというほかない。このような形式上の等価交換をつうじて、実質上の不等価交換がおこなわれている。ここに資本主義社会での搾取の特徴があったのである。資本主義社会ではすべての人間が形式上は平等であるのに、実質的にはひどい不平等におちいっているのも、ここに根本の原因がある。

 労働者がつくりだした新しい価値は、二つの部分から成っている。第一は、労働力の価値にひとしい価値部分、第二は、剰余価値である。

 そこで、これに対応して、労働者の労働は、二つの部分に分かれる。第一は、労働力の価値にひとしいだけの新しい価値をつくりだす部分、第二は、余剰価値をつくりだす部分である。第一の部分を、必要労働といい、第二の部分を剰余労働という。

 必要労働は、「支払われた労働」といい、剰余労働は「支払われない労働」、「不払労働」とよばれる。

 一般に階級社会では、生産手段の全部あるいは主な部分を独占している階級は、勤労人民から剰余労働を搾取してきた。奴隷所有者は奴隷から、封建領主は農奴から。それとおなじように、資本家は労働者から余剰労働を吸収しているのである。このばあい、奴隷や農奴が搾取されていることは、議論の余地なく、だれの目にもすぐにわかるが、労働者のばあいは、剰余価値という、目にみえないかたちで搾取がおこなわれているために、一見すると、なにも搾取などは存在しないかのように見える。これは、賃金が、労働力の価格の支払であるにもかかわらず、労働者の提供した労働全体(必要労働と剰余労働をひっくるめた全体)にたいする支払であるかのようにして計算され、支払われているからである。

 「賦役労働〔農奴の労働〕では、賦役民〔農奴〕の自分自身のための労働と領主のためにする彼の強制労働とが空間的に・また時間的に、はっきり感性的に区別されている。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が自分自身の生活手段の価値をうめあわすだけの部分、つまり彼が事実上自分自身のために労働する部分さえも、主人のためのろうとしてあらわれる。ところが賃労働では、余剰労働または不払い労働さえも、支払われるものとしてあらわれる」

 資本とは何か? かんたんにいえば、資本とは、労働者から剰余価値を吸いとることによって自己増殖してゆく価値のことである。資本はつぎの二つの部分から成る。

第一は、生産手段(原料・燃料や機械設備など)の購入にあてられる資本部分。これは生産過程のなかで価値が維持され、価値の大きさが変わらないで〔不変のままで〕生産物のなかへ移しこまれるので、不変資本という。 

第二は、労働力の購入にあてられる部分。ーーこれは生産過程のなかで剰余価値を生むことによって、価値の大きさが変わり、より大きな価値となって生産物のなかに再現されるので、可変資本という。

 不変資本はC、可変資本はVであらわす。

 剰余価値の記号はMである。

 そうすると、生産物の価値は、C+V+M ということになる(ただしこのばあいのCは、生産で用いられた生産手段全部ではなくて、そのうちの消費された部分、すなわち機関設備などの償却費プラス原材料費だけであるが)。

可変資本と比べた剰余価値の割合を、剰余価値という。

 剰余価値率=V/M

 これは、労働者にたいする資本家の搾取の度合いをあらわす。こんにちの日本の工業の剰余価値率は、だいたい250パーセントないし300パーセントくらいと計算されている。

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第5章 剰余価値生産の方法

 労働日の長さそのものを延長して剰余価値をふやす方法を絶対的剰余価値の生産という。

 資本主義の歴史をふりかえると、生産方法は、(1)単純な協業、(2)マニュファクチュア、(3)機械制大工業――という三つの段階をへて発展してきている。

 この三つの段階は、技術発展、生産方法の発展の三段階であるとともに、また相対的剰余価値の生産の三つの段階でもあった。それは、生産力を高め、労働力の価値を引き下げ、必要労働時間をみじかくするというやり方でぎゃくに剰余価値のほうを大きくするのに役立ったのである。

 ――労働者の消費資料を生産する産業や、そのような産業に原料や機械などを供給している産業部門で、技術が進み、労働生産性が上がれば、それらの生産物をつくるのに必要な労働時間が少なくてすむようになる。――ところが、労働力の価値は、生活資料の価値によって決定されるのだから、生活資料の価値が小さくなれば労働力の価値も小さくなり、したがって必要労働時間もみじかくなる。このばあい、必要労働時間がみじかくなっても労働日(一日の労働時間)全体がみじかくなるわけではない。

必要労働時間がみじかくなる分だけ剰余労働時間の部分が長くなるのは当然である。

 このように労働生産性を高め、労働日のうちの必要労働時間と剰余労働時間との相対的な割合をかえることによってより多くの剰余価値を生産することを相対的剰余価値の生産という。

 個々の資本家が同じ産業部門の他の資本家にくらべて、改良された機械や生産方法をとりいれたばあい、この資本家は他にくらべてより多くの剰余価値を手に入れることができる。これを特別剰余価値という。

 資本主義社会では、他の企業を出しぬいて自分だけが特別剰余価値を手にいれようという競争があるので、たえず新しい技術がとりいれられる。資本主義社会では、そういうかたちで技術進歩がおこなわれ生産力が発展する。

資本主義のもとでは資本家の個人の利潤追求に技術が追従する。もうからないばあい、新しい技術も採用されない。しかも、新しい技術によって、労働者の搾取は高められるのである。

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第6章 賃金

 資本主義のもとでは、労働力は商品となり、ほかの商品と同じように価値をもっている。労働力の価値が貨幣であらわされ、「労働力の価格」というかたちをとったのが賃金である。これが賃金の本質である。

 ところでじっさいの賃金の支払いにあたっては、賃金は、一日に働いた時間、あるいは一日に生産した個数などを基準にして計算される。そして一日(八時間)8000円とか、生産物1個あたり100円とか、いうふうに支払われる。このような賃金の支払い方をみると、あたかも労働にたいして賃金が払われているようにみえる。つまり、賃金は「労働の価格」のようにみえる。このように賃金は全一日の労働にたいする完全な支払いであるかのような外見をとっているために、余剰労働時間の搾取ということが、わからなくされているのである。

 だが一日八時間の賃金8000円というのは、じつは労働力商品一日分の価格なのである。

 賃金の支払いは、じっさいには、いろいろ複雑なかたちをとっているが、つきつめていけば、(一)時間賃金、(二)出来高(個数)賃金、という賃金の基本的な型が土台になっている。

時間延長のばあいも、労働強化のばあいにも、労働力の価値が大きくなる。というのは、残業をしたり、労働強化になったりすると、労働力の消耗度がふえ、回復のために消費資料がたくさん必要になるからである。だから、残業の割増がついたとしても、労働者はそれだけとくになるわけではない。

 出来高賃金は時間賃金から変形してきたものである。ある仕事についてみたばあい、一日あるいは一時間で何個製造できるか、ということはだいたいわかる。たとえば、労働者一人一日八時間の労働で80個の製品をつくれるものとし、それがいままで時間払い賃金8000円だったとしよう。資本家はそこから逆算して製品一個つくれば100円という賃金単価(レート)を決める。このばあい、資本家は、この賃金単価で労働者の稼ぎが、時間払いのばあいより多くならないように、はじめから計算に入れている。ここに出来高賃金が時間賃金の変形であることがあらわれている。しかしこうなると、ますます賃金は労働者の働きによるもの、つまり労働にたいする支払いであるかのようにみえ、労働力の価格ではないようにみえてくる。

 人一倍能力のある労働者、あるいは人一倍働くものは、ほかのものが一日に80個しかできないのに、100個できるというようなばあいが生まれる。一個100円の単価が決まっているとすると、この労働者は一日に8000円でなく、一万円かせぐことになる。そうすると他のものもかれに負けないように、さらにせいをだして仕事をし、一万円かせごうとする。こうして、労働強度が全体としてつよまった結果、一日に100個つくる者の数がふえてくる。ところが、資本家はこれをみて、まじめにやれば一日に100個できるではないか、いままでサボっていたな、といって、一日100個のノルマで8000円(一個あたり80円)というように単価を下げる。そうなると、もうこんどは、いままでのように80個ではなく、最低100個つくらねば食ってゆけなくなる。この水準のうえでふたたび労働者の競争がはじまり、能力のある者はたとえば110個つくるような労働者がでてくる。……こういうようにつぎからつぎへ単価切下げがおこなわれる。

 このように出来高賃金は労働強化をおしつける賃金であり、労働者がお互いに競争するなかで、全体として自分たちのくびをしめることになる賃金である。このばあいは、監督がいなくても、労働者はみずからすすんで労働強化をしなければならない。

 労働者が資本家から賃金としてうけとる貨幣額は、名目賃金とよばれる。この名目賃金の額がかわらなくても、たとえばインフレで通貨のねうちが下がり、前よりも生活資料を少なくしか買えなくなれば実質賃金は下がる。

 商品の価格は需要と供給の関係で価値以上になったり、以下になったりする。ところが労働力の価格は、ふつう価値以下に下がる傾向をもっている。それは第一に、労働者は労働力のねだんが引きあわないからといって、ふつうの商品販売者のように、ねだんが上がるまで労働力の販売(働きにゆくこと)をやめるわけにはいかないからである。第二に、資本主義がすすむにつれて、労働力が資本家にとって過剰になる傾向(失業がふえる傾向)があるからである。

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参照→【転記】社会福祉の目的 賃金理論

【転記】アベノミクスで本当に景気がよくなったら 腹切ってやるYO!

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第7章 資本の蓄積

 資本家が、同じような規模の再生産すなわち単純再生産をしていては、同じくらいの剰余価値しかえられない。剰余価値をふやしてゆくためには、拡大再生産をしなければならない。そこで資本家は、もうけた剰余価値の一部を積み立て、これを資本元本につけくわえ、できるだけ資本を大きくしようとする。このように剰余価値を資本へくり入れ、資本を大きくすることを資本の蓄積という。

 資本と資本のあいだに、市場争奪のあらそいが展開される。市場争奪戦に勝ちぬくためには、新式技術を採用し、大量生産方式をとることによって、自分の商品のコストを引き下げ(個別的価値を社会的価値以下に切り下げ)たり、新製品を開発したりして超過利潤をかくとくしなければならない。また自分の商品の販路をひろげ、できるだけひろい市場をわがものとするために、マスコミをつかって大量宣伝をせねばならない。

こうした競争の機構が、「そうしなければ没落するぞ」というかたちで、資本家を資本蓄積へとかりたてる。いわば一個の《外的強制力》として作用するわけである。

 社会主義経済でも企業はたがいに競争する。賃金の面で、「能力におうじて働き、労働におうじて受けとる」という社会主義(共産主義の第一段階)の原則がつらぬかれているのと同じように、企業の面でも、経済計算と採算性の原則がまもられていて、大きな収益をあげた企業は、収入の一部を、その企業じしんの文化厚生施設や働き手の割増賃金のつかうことをみとめられる。

 資本蓄積がすすみ、資本が増大してゆくと、資本の有機的構成がしだいに高くなってゆく。資本の有機的構成というのは、資本総額のなかで、機械設備や工場建物および原材料など生産手段のかたちで投下されている資本部分(不変資本C)と労働者をやといいれるのにつかわれている資本部分(可変資本V)とのあいだの比率をさしている。ところがこの比率がだんだん高度化する。すなわち不変資本と可変資本とくらべた割合(C/V)が大きくなる。なぜかというと、企業の規模が拡大するにつれて、高度な技術が採用され、労働生産性が上がるから、単位あたり労働者のうごかす生産手段(機械設備や原材料)の量がますます多くなり、したがって賃金支出にくらべて、生産手段への支出のほうが急速にふえることになるからである。

 年月がたつにつれて、人工はふえてゆく。また資本主義が発展するのにつれて、農民や手工業者の一部分も労働者にかわってゆく。こうして働き口をもとめる人びとの数がふえてくる。ところが、資本総額のなかで、この労働者をやとうのにむけられる可変資本の占める比重がだんだん低下するのである。このことから「失業」という重大な結果が出てくる。

 働く能力をもち、また働こうという意思ももっているのに、資本がやとってくれないために、心ならずも働き口をみつけだせない人びとの大群――これが資本主義特有の相対的過剰人口とよばれるものである。過剰人口とはいうものの、これは資本蓄積のつごうで労働から切りはなされているだけだけのことであって、社会の立場からみて余計者・無用者というのではけっしてない。その証拠に、社会主義経済では、経済の拡大速度がはやいし、また労働時間を短縮するから、どんなに技術や労働生産性が上がっても、失業者が出ないようにできるのである。

 第一は、「流動的過剰人口」。これは企業の操業短縮や企業閉鎖、あるいは新機械の導入などのために、くびをきられて、つぎにまたどこかで仕事にありつくまでのあいだ、失業させられている労働者のことである。

 代には、「潜在的過剰人口」。これはいままで農民であったが、資本主義が農村に侵入するにつれて、もう農業ではやってゆけなくなり、そうかといってすぐ工業部門で職をえることもできないで、農村にくすぶっている人びとのことである。

 第三は、「停滞的過剰人口」。これは定職をもっておらず、ときたま不規則な仕事にありつくが、その賃金もべらぼうに低い、そういった家内労働者や日雇い労働者の層のことである。

 資本主義の政府統計で失業者というときには、これらのうちの流動的過剰人口だけしかふくまれていない。だから、じっさいの失業者数は政府の発表する数字よりもずっと多い。

 資本主義は過剰人口をつくりだすが、つくりだされた過剰人口が、こんどは資本主義にとって必要欠くべからざるものになるのである。

 なにか有利な投資部門ができたようなとき、資本は突発的に生産を拡張しようとする。たくさんの労働者が必要だということになる。さてこのばあい、労働者にむかって、さあいそいで子供を産め、さあ早く育てろ、といったところで、そんなに急に労働力が増産できるわけがない。

まさにこんなとき、過剰人口が役に立つ。だから過剰人口は、別名、産業予備軍という。それは、いつなんどきでも資本の要求におうじられるように用意された予備労働力のプール(貯水池)である。資本は、不況になったり、新機械導入で労働力が不用になると、くびを切ってこのプールへなげこむ。必要がおこると、このプールから労働力をすい上げる。まことに便利な調節弁である。もし産業予備軍のプールがなかったなら、労働力不足のために労働賃金はピーンとハネ上がってしまう。ところがこのこの予備軍をもっているために、資本家は現役(就業)労働者の賃上げ要求をおさえ、賃金を労働力の価値以下にたもち、就業労働者に過労働をしいることができる。「ぐずぐずいう人間は、やめてもらおうか。働かせてくれという人間がいくらでもいるんだからな」というわけである。このように相対的過剰人口は、資本が労働者階級にたいする専制的支配を完成するうえで、かけがえのないものとなる。

 だから資本家は、この予備労働力のプールの底がみえてくると、そわそわする。そして、なんとかして産業予備軍のプールを満水にしておくようにと、政府のしりをたたく。わが国の「農業構造改善事業」や「中小企業近代化」は、零細農家や中小企業を保護しないで経営難へおいこみ、たくさんの農村人口や中小企業就業者を外へしぼりだし、大企業のための産業予備軍をたっぷりつくっておこうとするところに、一つのねらいがあった。

 労働者は資本の攻勢に対抗し、じぶんの利益をまもるためには、どうしても失業者の問題をもじぶんの階級の問題としてとりあげてたたかわなければならない

 資本の蓄積がすすむにつれて、労働者階級の貧困が増大する。

経済学で「貧困」・「貧困化」というばあいには、それは「肉体的な意味ではなく、社会的な意味で、すなわち、ブルジャワジーの需要や前社会の需要の高まりゆく水準と、勤労大衆の生活水準とが照応しない、という意味で」いわれていることに注意していただきたい。

 だからかりに実質賃金が上昇し、生活内容が前とくらべてよくなるというばあいでも、この意味での貧困化はなくなったわけではない。社会の総所得がふえ、文化が発達し、社会の生活水準が高まってゆく(ブルジョワたちの生活内容はいっそう豊かになる)のにくらべて、労働者の所得ではとてもこれを満たすことはできないからである。

 資本の蓄積がすすむにつれて、社会の一方の極には、富がどんどんつみあげられ、搾取者たちのぜいたくがひどくなってゆく。社会の他方の極では、失業が増大し、労働によって富をつくりだしている人びとの生活が不安定になってゆく。これが資本主義的蓄積の一般的法則である。

 資本家階級のあいだでは、多数の中小資本家は、没落するか大資本に支配され、ひとにぎりの巨大資本の制覇がすすむ。

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参照→【転記】派遣問題を経済学で紐解く

【転記】外国人労働者を受け入れる理由

相対的過剰人口