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<a href="http://secret.ameba.jp/frederic-chopin/amemberentry-12006583741.html">『経済学入門 / 林直道』を読了②</a>

第8章 資本の循環と回転

 資本が貨幣資本(G)・生産資本(P)・商品資本(W')・という三つの形態をつぎつぎととっては脱ぎ、脱いではとりながら運動することを資本の循環という。またこういう運動をする資本が産業資本である。
 第一段階(貨幣資本が生産資本になる過程)では、生産のために必要な機械や原材料や労働力などが調達され、剰余価値生産のための準備がととのえられる。第二段階(生産資本から商品資本にかわる過程)では、剰余価値の生産がおこなわれる。第三段階(商品資本がふたたび貨幣資本にかわる過程)では、商品が販売され、貨幣形態で回収され、剰余価値が実現される。

 重商主義学説は、資本とは増殖する価値であるという本質を素朴に表現したが、生産過程を分析できず、流通過程の表面的現象をなでまわすにおわった。重農学派は、社会の総生産物がどこへ売られるか、だれによって買われるかという社会的再生産の道すじ、物財の流れの描写(経済表)をおなうことができたが、貨幣のもつ独自的意義を考えることができなかった。古典学派は、生産過程を重視し、労働価値説にもとづいて全経済現象を体系的に分析することに成功しえたが、しかし「原始人の石斧もまた資本である」という主張にあらわれているように、資本主義的生産を永遠の超歴史的な制度であるかのようにみなし、それのもつ歴史的独自的正確をみおとす結果となった。
 マルクスの『資本論』は、資本の運動を三つの循環形式の統一として把握することによって、従来の経済学の一面性を克服し、全面的・科学的な見地を確立したのである。


 資本の循環を一回きりのものとしてではなく、くりかえす過程としてとらえたものを資本の回転という。資本の回転がはやい速度でおこなわれると、同じ資本額によってえられる年間の剰余価値の量がそれだけ多くなる。
 生産時間のなかには、労働過程のおこなわれている労働期間だけでなく、労働過程が中断されている休日や夜間もふくまれている。そこで資本はこの労働の中断期間を圧縮しようとし、三交代制などをしいて夜も労働過程がつづくことをのぞみ、また休日もできるだけふやしたがらない。けれども、この問題で労働者の人間的要求と資本の剰余価値追求欲とが対立する。
 また労働期間のなかには、木工品や皮製品の乾燥や、ウィスキーの醗酵のように、労働対象自体の天然の変化にゆだねる時間もふくまれている。この時間には労働者の労働がつけくわわらないから価値や剰余価値は生まれない。そこで資本は薬品添加や熱処理などさまざまの方法を用いて労働対象の変化を人為的に促進し、この時間をできるだけ短縮しようとする。
 つぎに、資本が流通過程にとどまっている流通時間には、その資本は生産過程からはなれており、剰余価値をつくることができない。だから資本は、まずできるだけこの流通時間を短縮しようとする。資本主義企業が通信機器の発達や交通機関の高速化、高速道路建設を要求
も、そのためである。

 資本の回転の問題を考えるとき、重要な意味をもってくるのは、固定資本と流動資本という新しい資本区分である。
 固定資本とは、機械や設備、建物など主として労働手段に投下された資本のことである。
 原料や労働力は流動資本である。原料は一回の生産過程で価値をすっかり生産物へうつす。労働力も一回の生産過程でその価値が生産物のなかで(より大きな価値となって)再現する。

不変資本機械・設備等(労働手段)固定資本
原料等(労働対象)流動資本
可変資本労働力

 不変資本と可変資本の区別が生産過程における価値形成上の役割のちがいをもとにするのにたいして、固定資本と流動資本の区別は、価値の流通の仕方のちがいをもとにするものである

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第9章 社会的総資本の再生産

 「再生産」とは、生産が一回きりではなくてくりかえしておこなわれることである。資本主義社会が存続してゆくためには、毎年毎年、生産がつづけておこなわれなければならない。

 こうした社会的総資本の再生産がいったい「どのようにおこなわれるのか」、すなわち、一方では、生産されたすべての生産物がどこへ売られるのか、そして、他方では、次年度の生産に必要なすべての生産手段や消費資料がどこから買われるのか、どいう基本的な道すじ・流れを(すなわち、社会的再生産の法則を)明らかにしなければならない。
 そのためには、まず、つぎのような二つの角度から、社会的総生産物を諸部分に分解しておくことが必要である。
 第一は《二部門分割》すなわち、社会の全生産物を素材の観点から、「生産手段」(Ⅰ)と「消費資料」(Ⅱ)との二大部門に分けることである。
 第二は、《価値構成》すなわち、社会の全生産物を価値の観点から、「不変資本=生産手段の消耗分」(C)と「可変資本」(V)と「剰余価値」(M)という三つの価値構成部分に区分することである。
 そこで社会の総生産物はつぎの六つに分解される。
Ⅰ C1V1M1 (生産手段)
Ⅱ C2V2M2 (消費資料)


 単純再生産は規模不変の再生産ともいう。単純再生産のばあいには、剰余価値のすべてを資本家が個人的消費のためについやしてしまうので、社会の総生産物は、
つぎの六つの部分に分かれる。
 Ⅰ C1V1M1 (生産手段)
 Ⅱ C2+V2+M2 (消費資料)

 まず、生産手段の生産額は、C1V1M1 であらわされる。これを①としよう。
 つぎに、今年度の生産によって消耗した生産手段の大きさ、したがってまた次年度の生産継続のために素材的に補充される必要のある生産手段の価値額は、C1C2  (両部門の消耗不変資本)であらわされる。これを②としよう。
 単純再生産が円滑に、過不足なく進行していくためには、①と②とがひとしくなければならない。
 V1+M1=C2
これが単純再生産の条件である。

 こんどは消費資料のほうからみてみよう。
 まず、消費資料の生産額は、C2+V2+M2 であらわされる。これを③としよう。
 つぎに、社会全体で求められている消費資料の価値額は、両部門の労働者の賃金と資本家の剰余価値との合計、すなわちV1V2+M2M1 であらわされる。これを④としよう。
 単純再生産が円滑に、過不足なく進行していくためには、③と④がひとしくなければならない。そこで、
 C2V1+M1


 拡大再生産のばあいには、生産手段は、今年度の消耗分をうめあわしてなお若干の拡大用の剰余分が生産されていなければならない。
 C1V1M1C1C2
 あるいは、 V1M1C2 でなければならない。これが拡大再生産の物的前提である。
 拡大再生産では、剰余価値のうち一部分が拡大用不変資本(mC)および拡大用可変資本(mV)として留保され、これが資本に転化され、元資本(CとV)につけくわえられてゆく。その残りの剰余価値を資本家は個人的消費に支出するわけである(mK)。
 そこで拡大再生産のばあいには、社会の総生産物は、つぎの10個に区分される。
 Ⅰ C1V1+mK1mC1mV1 (生産手段)
 Ⅱ C2+V2mK2mC2mV2 (消費資料)
 拡大再生産が円滑に、過不足なく進行するためには、つぎの条件が必要である。
 V1+mK1mV1C2mC2
 これは第Ⅰ部門の労働者および追加労働者の賃金と資本家の個人的消費に向けられる剰余価値との合計が、第Ⅱ部門の消耗不変資本および拡張用追加不変資本との合計にひとしくなければならない、という意味である。


 現実には、この条件からの乖離こそがむしろ一般的である。現実の生産は不均衡が常態であって、つねにいくつかの商品種類には過剰生産=売れ残りが生じ、他のいくつかの商品種類にはぎゃくに過小生産・品不足が生じている。しかし、社会的再生産がおこなわれる以上は、どうしても再生産の条件が満たされなければならない。そこで過剰な商品は市場価格が価値以下に下がり、それの生産がへる。ぎゃくに品不足の商品は市場価格が価値以上に上がり、それの生産がふえる。このような市場価格のたえざる変動、資本のたえざる部門間移動をつうじて、再生産の条件が貫徹される。これが、ひときわ激しいかたちで生じるのが恐慌である。

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第10章 資本と利潤

 投下資本全体とくらべた剰余価値のことを利潤という。
 剰余価値を可変資本だけで割ったもの、M/V これが剰余価値率であった。これは、資本家が労働者を搾取する度合いをあらわしている。
 これにたいして、剰余価値を、不変資本も可変資本もひっくるめた資本全体で割ったもの、M/(C+V) これが利潤率である。利潤率は、資本がある分量の剰余価値を手にいれるために、どれだけの資本を用いなければならないか、をあらわしている。
 剰余価値は労働力によってつくりだされたものである。
利潤という形態のもとでは、不変資本と可変資本という資本の本質的な区別がぬりつぶされてしまうのである。
 しかし、資本家どうしの競争の世界では、利潤率が現実に生きて働いている。なぜなら利潤率が高いということは、同じ額の剰余価値をうるのに資本が少なくてすむこと、ぎゃくにいえば、同じ資本額でもってより多くの剰余価値がえられることを意味するからである。


 では利潤率の大きさを左右するものは、なんだろうか。
 第一は、剰余価値率である。剰余価値率が高ければ高いほど、利潤率も高くなる。
 剰余価値率が同じでも、利潤率にちがいをもたらすものがある。その一つは、「資本の有機的構成」である。
資本の有機的構成が高い部門ほど利潤率は低く、有機的構成の低い部門ほど利潤率は高いのである。
 もう一つ、利潤率の差をつくりだすものに、「資本の回転速度」の相違がある。


 できるだけ高い利潤を追い求めるのが資本の本性である。産業部門によって利潤率に差があるとすれば、資本が利潤率の低い部門をきらって、利潤率の高い部門へゆこうとするのはとうぜんである。このような資本の運動をつうじて、平均利潤率の法則が成立することになる。このことを、資本の有機的構成のちがいによる利潤率の差をもとにして説明しよう(回転速度の差による利潤率の差ははぶいておく)。
 表は、皮革、繊維、鉄鋼という、有機的構成のちがう三つの生産部門を例にとったもので、社会には資本主義的部門はこの三つだけしかないと仮定する。

皮革部門繊維部門鋼鉄部門社会全体
不変資本(C)
可変資本(V)
剰余価値(M)
もとの利潤率(M/(C+V))
70
30
30
30%
80
20
20
20%
90
10
10
10%
240
60
60
20%
平均利潤率
平均利潤(P)
平均利潤と剰余価値の差額
20%
20
-10
20%
20
0
20%
20
+10
20%
60
0
商品の価値(C+V+M)
生産費(C+V)
商品の生産価格(C+V+P)
生産価格と価値との差額
130
100
120
-10
120
100
120
0
110
100
120
+10
360
300
360
0

 三つの部門のうち、皮革は有機的構成が低いので、利潤率が高く(30%)、鉄鋼は有機的構成が高いので、利潤率が低くなっている(10%)。そうすると、資本家である以上、だれしも皮革部門へ資本を投下しようとする。
 ところが、このあと、たいへんな変化がおこる。
 まず、利潤率の高い皮革部門へは、どんどん資本が入ってくる。すると、皮革の生産が増大する。べつに皮革にたいする需要がふえたわけではない。だから、供給が需要を上まわってしまう。すると皮革のねだん(市場価格)が価値以下に下がる。ねだんが下がれば、皮革部門のじっさいの利潤率は下がってしまう。――利潤率が下がりすぎると、資本はほかの部門へ逃げだす。
 これとぎゃくに、利潤率の低い鉄鋼部門には投資する者がない。資本が減少する。需要にくらべて供給の少なすぎる状態がつづくと、鉄鋼のねだん(市場価格)が価値以上に上がる。ねだんが上がれば、鉄鋼部門のじっさいの利潤率は上がってゆく。――すると、資本がほかからこの部門へ流れこむ。
 高い利潤を追い求める資本の部門間移動によって、有機的構成のちがいから生じる各部門のもとの利潤率の差は、すっかりかきまわされてしまう。そして長い期間を通算してくらべてみると、さまざまの部門の利潤率のあいだにはあまり大きなひらきがなくなり、どの部門の利潤率もだいたい似たりよったりの高さになり、社会の平均的な利潤率の水準に近づくのである、この平均的な利潤率を平均利潤率という。それは、社会のすべての部門でつくられた剰余価値の合計額を、社会のすべての部門の資本の合計額で割った大きさである。
 表の数字でいうと、平均利潤率は、60M÷(240C+60V)で、20%である。部門から部門へとうごきまわる資本の無政府的な運動のために、皮革や繊維や鉄鋼のもとの利潤率の差がならされ、20という平均利潤率へ還元されたわけである。
 そして、投下資本にこの平均利潤率をかけあわせたものを平均利潤といい、これが各部門の手に入る。皮革の平均利潤は(70+30)×0.2=20 繊維のは(80+20)×0.2=20 鉄鋼は(90+10)×0.2=20 である。
 皮革部門では剰余価値が30つくられ、繊維では20、鉄鋼では10の剰余価値がつくられたのだが、じっさいに各部門の手に入ったのは、同じ20の平均利潤であった。
 社会のさまざまの部門でつくられた剰余価値がぜんぶひとまとめにされ、これが投下資本の大きさに比例した割合で各部門へ均等に配分しなおされたことになる。
 ひとつひとつの資本は、できるだけ高い利潤を追い求めているにもかかわらず、この盲目的な資本の運動によって、結果的には、各部門の利潤率が均等化されることを平均利潤率の法則
という。

 平均利潤率の法則は、各生産部門の資本家たちが利潤をうばいあっていあらそいながら、しかもかれらが共同の利益でつながっていることをハッキリと証明している。
労働者と資本家とは、その所属する産業部門のワクをこえて、たがいに階級として経済的に対立しあっていることが、この平均利潤法則によって証明されるわけである。


 平均利潤が成立するまでは、商品は価値を基準にして売買された。すなわち、商品の市場価格の変動の中心軸は価値であった。価値は、生産費に剰余価値をプラスしたもの、C+V+M であらわされる。Cは消耗された不変資本、Vは可変資本=賃金、Mは剰余価値である。
 ところが、平均利潤が成立すると、商品の市場価格の変動の中心は、価値ではなくて生産価格にとってかわられる。生産価格とは、生産費に平均利潤をプラスしたものである。記号でいえば、C+V+P であらわされる。Pは平均利潤である。
 個々の商品種類が価値を基準とした価格ではなくて、生産価格を基準としてた価格で売買されるということは、なんら価値の原理が無効になったということを意味するものではない。
 たとえば鉄鋼とは皮革とかいうように個々の商品種類をとってみると、たしかに生産価格の大きさと価値の大きさとは、くいちがっている。ところが、それらをひっくるめて、社会全体、商品全体についてみると、生産価格の社会的合計は360で、これは価値の社会的合計=360と、ぴったり一致することがわかる。つまりさまざまな部門、さまざまな商品を全部ひっくるめて社会全体でみれば、価値がちゃんと貫徹しているわけである。
部門間資本移動によって社会総剰余価値が部門間に分配しなおされた結果として、個々の商品種類ごとに価値の大きさと異なった生産価格が成立したのであって、この変化は社会総商品の価値を前提とし、そのワクのなかでおこっている事柄である


 ある部門で過剰生産がおこったとき、ほんとうなら市場価格が暴落して利潤率が下がるはずだが、独占資本は必死に価格をつり上げて、利潤の低落をふせぐ。また、ある部門で高い利潤率がえられているとしよう、
この部門を独占資本がにぎっているばあいは、さまざまの方法で防壁をきずき、ほかから新参の資本の入ってくることをじゃまし、高い利潤率をひとり占めしつづけようとする。このようにして、独占資本は平均利潤よりもずっと高い超過利潤をかくとくする。超過利潤は、独占以前の資本主義のもとでもあらわれたが、それは新式技術を採用したようなときに一時的にえられるだけであった。ところが独占資本は、いつでも独占的に超過利潤をかくとくしているので、これを独占利潤という。
 独占資本主義時代には、平均利潤法則は、いぜんとして作用しているが、これとならんではたらきはじめた独占利潤の法則によって、その作用をねじまげられるわけである。

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第11章 商業と信用。株式会社

 資本主義の発展とともに、資本家階級は三つのグループに分かれる。まず、生産をいとなんで、剰余価値をつくりだす資本が「産業資本」。産業資本家から商品をまとめて買いとり、その販売をうけもつのが「商業資本」。そして産業資本家と商業資本家とに、たりない貨幣を貸し付けるのが「貸付資本」である。


 商業利潤は、産業資本家が販売の仕事をやってもらう代償として商業部門へゆずりわたす剰余価値の一部である。
 商業資本の投下した資本とくらべた商業資本化の利潤の割合が、産業資本の利潤率よりも高いばあいには、資本の一部が産業部門から商業部門へ流れこみ、ぎゃくに商業利潤率のほうが低いばあいには、資本の一部が商業部門から産業部門へ流れだす、というようにして、商業もまた「平均利潤率」の形成に加わるわけである。

 広告や販売やそれと結びついた事務の仕事は、価値をつくりださない。
けれどもかれらは、商品の売買をおこなうことによって剰余価値を実現させ(実現とは貨幣形態にかえること)、そうすることによって商業資本家のために剰余価値のわけまえをつくりだしているのである。もし商業資本家が、商業労働者のつくりだした剰余価値のわけまえのなかから物的経費を差し引いたのこり全部を商業労働者にわたすなら、搾取は存在しない。しかし、商業資本家はそんなことはしない。かれらは商業労働者にたいして労働力の価値(賃金)だけしか支払わず、その差額分を無償で取得しているのである。

 広告費ひとつをとってみても、どんなに資本主義が富を浪費するものであるかがわかる。これらは資本ができるだけたくさんの利潤をえようとしてはげしく競争するために必要になるにすぎない。だが、これらの浪費分は商品価格につけくわえられ、消費者にしわよせされる。


 もう一つの資本グループは貸付資本である(「利子生み資本」ともいう)。資本主義社会では、
貨幣は、資本としてつかえるほどのまとまった額になると、平均利潤を生むという新しい使用価値をもつわけである。産業や商業の資本家は、もっとたくさん利潤をえようとして、仕事の規模をひろめるために、この貨幣を求める。貸付資本家はかれらに貨幣資本を貸し付けて、その代償に利子をとる。貸付利子が剰余価値の一部であることは、いうまでもない。
 銀行は、貸付用の貨幣を社会のすみずみから、かきあつめる。
 銀行は、これらの貯金にたいしても、預け入れの条件におうじて、さまざまの率の利子を払うが、それらはみな、貸付の利率よりずっと低い。この貸付利子と預金利子との差額のなかから、物件費や銀行労働者の賃金などの経費を払い、そののこりが銀行資本家の利潤になるわけである。
銀行業もまた平均利潤率の形成に加わる。
 銀行労働者もまた、銀行資本家のために剰余価値のわけまえをつくりだしながら、賃金として労働力の価格だけしか支払われず、その差額分だけ無償で労働を取得されているのである。


 一定期間、人に貨幣を貸し付けることを信用という。

 信用は、企業にたいして現金の必要を少なくさせ、生産の拡張をたすける。とくに銀行は、その巨大な信用機構をつかって、現金なしの取引を大規模に発展させた。
 銀行は非現金決済の方法を大々的に発達させ、社会的に巨額の貨幣を節約し、この節約分を生産拡大につかうことを可能にするわけである。
 
 信用は生産を極限まで引きのばし、結局は過剰生産をひどくしてしまう。資本主義につきものの「生産の無政府性」をいっそうはげしくするわけである。そのうえ、好景気がつづいて、債務の返済が順調なときはよいが、もしも過剰生産の徴候が見えてくると、銀行は容赦なく貸出しや手形割引を制限する。ぼう張しきっていた信用の上部構造が、まるで蜃気楼のように消えうせ、潤沢だった貨幣が、どこかへ姿をかくす。たちまち企業は「金づまり」におちいる。こうして信用は、恐慌の破壊力をいっそうひどくすることになる。
 銀行から信用をうけるとき、資本力のつよい大資本が有利な立場にあることは、明らかである。小資本は資本力がよわく、貸すほうとしては不安だからというわけで、銀行は小資本にはきびしい条件をつける。その結果、信用は、大資本と小資本の格差をいっそうひろげ、資本の蓄積と集中を促進する強力な道具となるわけである。


 創業者利得の圧倒的な部分をつかみとるのは、ばく大な貨幣資本をにぎっていて、これを自由にうごかすことのできる銀行、保険会社、証券会社などの金融機関の資本家や、巨額の利潤をたくわえている巨大産業資本である。創業者利得は、これら巨大資本の重要なもうけ口となっている。社会の一方では、毎日ながい時間働きとおしながら、ひくい所得しかえられない勤労者が多いのに、他方、巨大資本のもとでは、配当率と利子率のひらきというようなからくりを利用して、まるで魔法か手品のように、ゴッソリを巨億のカネがころがりこむ。これが資本主義のおどろくべき現実の姿なのである。


 しろうとでも、株式投機に手を出して、もうけるときがある。しかし長い目でみると、大衆はたいていそんをする。なぜなら、大衆は、株価の大変動をひきおこすような経済上・政治上の情報を的確につかむルートをもたず、ウワサをたよりに、あてずっぽうですすむほかないからである。これにたいして大資本家のほうは、経済界の変化は自分自身の力でおこせるものだし、政界・官界ともみっせつなつながりをもっているから、確実な情報にもとづいて手をうってゆくことができる。
 株式投機では、不労所得をかせぎたいと欲を出した中産階級や勤労者の一部が、貯蓄を大資本家にかすめとられるのである。

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第12章 地代と農業における資本主義

 地代は土地そのものが生みだすようにみえる。しかし、
価値をつくりだすのは、土地ではなくて、土地の上でなされる農業労働者の労働である。
地代もまた、利潤と同じように、労働者から搾取された汗の結晶なのである。


 生産価格は、工業製品のばあいはその平均の生産条件での価格で決まるが、土地生産物では、社会が必要とする生産量のうちもっとも悪い土地(最劣等地)の生産物の価格で決まる。なぜなら、土地は機械とちがって、資本を投下してもすぐよい土地をつくりだすことができず、もしその悪い土地では平均利潤がえられない価格に下がると、その土地は生産がおこなわれないため、社会の必要な需要が満たされないことになるからである。
 もっとも悪い土地以外の土地では平均利潤のほかに、超過利潤(余分の利潤)が生まれる。しかも土地のちがいはつねにあるから、この超過利潤はつねにできてくる。この超過利潤が差額地代(第一形態)となり、借地してる農業資本家はこれを地主にひきわたさねばならない。
 また、よく肥えた土地にさらに追加の投資がなされて、それが超過利潤を生みだすばあいは、この超過利潤も差額地代に転化される(これを差額地代の第二形態とよぶ)。土地の賃貸契約をきりかえるとき、地主は、それをふくめた額に地代を引き上げる。


 資本主義地代の第二の種類は絶対地代である。さきに述べた差額地代のばあいには、最劣等地には地代は生じないことになる。しかし、実際には、どんな悪い土地でも、地主に地代を払わないと耕作させてくれない。
  まず、農業では工業にくらべて資本の有機的構成が低く技術がおくれており、機械や原料にくらべて労働力を買うために投じられる資本の割合が高い。このため同じ大きさの資本では、工業よりも多くの剰余価値がつくりだされる。
 農業では、土地所有があるために、自由に資本が農業に入れない(地代を払わないと入れない)ために、この平均化がさまたげられ、農産物は、最劣等地での生産物の価値どおりか、あるいはそれに近い価格、したがって生産価格よりも高い価格で決まる。そして、この生産価格をこえる部分が土地所有者の地代となる。これが絶対地代である。


 土地は労働生産物でないから、もともと価値をもっていない。しかし、土地は価格がついて売買される。それは、なぜだろうか。
 土地には価値はないが、資本主義のもとでは、地主に年々地代がはいる。これは銀行に預金しておくと年々利子がはいるのと似ている。そこで、たとえば一ヘクタールの土地があり、年々地代が24万円だとすると、この土地をもつことは、年六%の利率の400万円の定期預金(年間の利子は24万円)をもっているのと同じになり、こうしてこの土地の価格は400万円になるわけである。

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参照→【地 代】 商品生産 - OCN


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第13章 国民所得と国家財政

 賃金労働者によって富がどのように生産され、それが有産階級のあいだでどのように分配されてゆくか、というメカニズムが、あらまし説明された。


 一定の期間、たとえば一年間に社会全体でつくられた財貨(これはみんな資本主義のもとでは、商品=商品資本のかたちをとっている)を社会的総生産物という。
社会的総生産物のうち、つかわれた不変資本の大きさに相当する分だけが生産手段のうめあわせにあてられる。社会的総生産物のうち、右のうめあわせ(補填)分を差し引いたのこりは、じつはこの期間に労働者が自己の労働によってあらたにつくりだした価値に相当する部分である。この分を国民所得という。
 社会的総生産物の価値をC+V+M であらわせば、国民所得はV+M ということになる。
 物的生産に従事する労働者は社会的総生産物、国民所得をつくりだすが、小商品生産者(農民や手工業者などのように自分の労働で商品を生産するもの)の生産労働もまた社会的総生産物、国民所得の一部を生みだす。それ以外の階級や階層は国民所得をつくるのではなく、それをうけとるだけである。


 生産的労働者によって生みだされた国民所得は、社会の各階級のあいだでどのように分配されるか。この分配は資本家と地主などの搾取階級に有利に、労働者や勤労者階級に不利におこなわれる。労働生産物である商品は資本主義のもとでは、生産手段の所有者である産業資本家のものになり、資本家はそれを売って貨幣のかたちでC+V+M の大きさにひとしい価値を手に入れ、そのなかから賃金が支払われる(賃金は労働力の価値あるいは価値以下に決められる)。剰余価値は、産業資本家の利潤、商業資本家の利潤、貨幣資本家の利子、地主の地代というように分けられる。
 国民所得はまず右のようなかたちで分けられるが、それでおわるわけではない。資本家は、配当や利子のかたちで手に入れた不労所得を、ぜいたくな生活資料やサービスに支出する。
 労働者の賃金は、市場の八百屋や酒屋、理髪屋、パチンコ屋、医者などの所得にかわってゆく。
 こういうように、最初に分配された国民所得は、その後非生産部門の労働者や諸階層の所得にかわってゆく。これを国所得の再分配という。
 第一次分配の段階では、商品が価値どおりに売られ、賃金が価値どおりに支払われるように仮定したが、独占資本主義の現在ではそういうようにはなっていない。中小零細企業は独占企業から原材料や機械を価値以上の価格で買わされ、製品を大資本に価値以下に買いたたかれる。労働者は労働力の価値以下の低賃金で働かされ、独占の高い商品を買わされる。こういうわけで、すでに国民所得の第一次分配の段階でも、独占的大資本に有利な分配がおこなわれる。信用の面でも、独占的大銀行が中小資本から高い利子をとりたてる。


 国家財政は、多数の勤労者大衆の所得からはきびしく、資本の所得からはゆるく、吸い上げた税金をたっぷり大資本にそそぎこむ。資本の利益において国民所得を再分配するところに財政の役割がある。


 もしこれらの仕事が民間企業のかたちでおこなわれるばあいは、それがサービスであろうと、教育であろうと、医療であろうと、やはり剰余価値の取得が目的となっており、労働者はその労働の一部を搾取されている。
 さまざまな労働者部類はそれに対応した特殊性をもっている。が、それ以上に重要なことは、かれらがいずれも社会的再生産の一分肢を構成し、かつ労働力の販売によって生活の糧をえているという共通点をもっていることである。

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参照→【転記】+猫にでも分かる経済学 富の再分配 富とは何か+


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第14章 恐慌と景気循環

 恐慌という現象は、まったく資本主義特有のものである。ほかの社会でも、人びとがじゅうぶんな生活物資を手にいれることができなくて、飢えに苦しむことがたびたびあった。
資本主義の恐慌がこれらと根本的にちがう点は、人びとが生活に苦しむ原因が、物資の生産不足ではなくて、ぎゃくに物資の過剰生産にあるということである。

 外国にこういう物語がある。失業した石炭労働者の家庭では、寒いのに、石炭が買えないのでストーブをたくことができない。
 子ども「どうして石炭がないの?」
 母「父ちゃんがクビになったから買えないのだよ」
 子ども「どうしてクビになったの?」
 母「石炭があり余ってるからだよ」
 子ども「………?」

 過剰生産は、腹がいっぱいでこれ以上なにも食えないという意味での、絶対的な過剰生産ではない。人びとはいくらでもほしいのだが、カネがないために買えない。だからこれは物資の供給とくらべて需要がとぼしいからおこった過剰生産、その意味で「相対的過剰生産」なのである。


 資本主義では、生産はきわめて大規模なものとなった。
また資本主義では、社会的分業がすすみ、
各分野がたがいにみっせつにむすびつき、とけあい、こうして一個の社会的生産過程を形成している。これを生産の社会化という。いまではどんなものでも多数の人びとの協業と社会的分業とによる総合的な生産物となった。
――ところが資本主義では、生産は社会化されているにもかかわらず、資本家階級が生産手段を私有しているところから、生産物は依然として資本家の私的所有物となっている。――これは矛盾している。この生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態との矛盾、これこそが《資本主義の基本的矛盾》とよばれるものである。
 資本主義の基本的矛盾は、第一に、階級的対立すなわち「プロレタリアートブルジョワジーとの対立」としてあらわれ、第二には、「個々の企業内での生産の組織性と社会内での生産の無政府性との対立」としてあらわれる。


 資本と労働との階級対立は、資本主義経済の運動のなかで「生産と消費の矛盾」といういっそう展開されたかたちであらわれる。
 資本主義企業はたがいに競争して生産を拡張してゆくが、生産しただけではなんにもならない。これを市場で売らなければならない。商品には消費財と生産手段とがあるが、生産手段は消費財をつくるためのものであって、けっきょくまわりまわって消費財になる。そして消費物資の主要な部分を購入するのは勤労大衆である。だから大衆の消費力が、けっきょくは商品の市場全体をささえていることになる。ところがその大衆の消費力というものを、資本主義は最低限におさえつけているのである。というのは、資本家はできるだけたくさんの「剰余価値」をかくとくするために、なるべく労働者を安い賃金で働かせようとするからである。そのうえ、資本家は新技術を採用して失業者をつくりだす。
 こうして一方では生産を無制限に拡張しようとするのに、他方、大衆の消費のほうは、賃金というせまいワクにとじこめられたままである。これが生産の消費と矛盾である。恐慌のときには、買い手のないたくさんの商品が市場にあふれるが、これは全体としての生産が消費の水準を上まわってしまったことを示している。つまり恐慌は生産と消費の矛盾が爆発したものである。
 恐慌は、
たんなる経済バランスのとりそこないや、「生産部門間の不比例」だけによるものではない。それならば社会主義でも恐慌がおこるはずであるが、社会主義に恐慌はない。恐慌は「生産と消費の矛盾」という資本主義の本質的な矛盾から生まれたものなのである。
 ところで、この生産と消費の矛盾ということを手っとり早く解釈して、労働者の賃金が低いから恐慌がおこるのだ、賃金を高めさえすれば恐慌はなくなるだろう、というように安直に考えてはならない。そういう考え方を過小消費説という。
実際には、どんなに賃金をたかめても(といっても資本主義が賃金を労働力の価値以上にたかめることはないが)、資本主義のもとでは恐慌はなくならない。


 社会が秩序正しく再生産をつづけてゆくためには、社会的分業がうまいぐあいに編成され、社会の労働量全体が、さまざまの物資の生産面へ、社会の欲望と比例したわりあいで配分されていなければならない。
 ところがこれらの古い時代の小規模な、個々バラバラな生産とはちがって、資本主義や社会主義のように生産が社会化され、各部門がたがいにきんみつに融合しあっている経済のばあいには、社会的再生産のふくざつな関係が形成されるから、労働の比例的配分を達成することは容易なワザではない。
 資本主義のもとでは、生産手段が資本家階級によって私有されているために、計画経済を実現することが不可能なのである。たしかに資本主義も、工場のなかでは、ムダをはぶき、生産の合理化、計画化、組織化を徹底的におしすすめた。だがこれは、個々の企業、個々の工場のなかだけでの話であって、一歩企業の外へでてみると、資本主義は、社会の内部での生産の無政府性をとりのぞかないばかりか、以前の小商品生産のときよりもいっそう無政府状態をはげしくしているのである。
その結果、社会的再生産のつりあいをぶちこわしてしまう。そのアウト・ラインはつぎのとおりである。

 資本家の資本蓄積競争、生産拡大競争がすすむにつれて、第二部門(消費資料生産部門)の生産増大よりも第一部門(生産手段)の生産増大のほうが不均等に急速にすすむ。
第一部門の不均等ぼうちょうは、じつは社会全体で固定資本の投資がたかまったきていることをあらわしている。
 固定資本(機械設備・工場建物など)は、金額的に巨額にのぼるので、さいしょ投下するときは、一時に大きな需要をよびおこす。設置されてしまうとその耐用年数がつきるまで、もう需要はつくりださず、ぎゃくに生産物をつくり、供給をふやしつづける。
 固定資本はこうして社会の需要と供給の流れをかきみだす。だから社会全体で需要と供給のバランスを保つためには、投資を個々の企業の勝手にまかせてベラボウに多くなったり、うんと少なくなったりすることのないよう、社会全体の立場から投資を計画化しなければならない。
 ところが資本主義ではそうはゆかない。もうかりそうだというときは、われもわれもとみながいっせいに固定資本を拡張しようとする。あとでその反動がくるのではないかと気づいたふんべつのある資本家があったとしても。もしかれだけが投資をしなかったならば、シェア(市場占有率)拡大の闘争に破れて、没落してしまう。
利潤獲得闘争のためにさまざまの部門や企業の固定資本投資が一時に集中しておこなわれることになる。その結果、設備投資のたかまりを機動力としてつよい需要がわきおこり、雇用も増大し、物がとぶように売れ、経済全体が異常な熱気をおびる。
 けれども、じつはこの好景気はみせかけにすぎない。企業は設備拡張をやりぬくなかで、貨幣資本のたくわえを総動員し、吐きださねばならない。
やがて固定資本投資はスローダウンせざるをえない。これにともなって需要もおとろえる。ところがちょうどこのとき、先行の繁栄局面で投下されていた大量の新式生産設備が稼働しはじめる。ぞくぞくと生産物が市場に放出され、ときとともにますます大量になってゆく。その結果、生産物の常用と供給のバランスが逆転し、供給が需要を上まわるようになる。商品の売れ行きはしだいにわるくなり、滞貨がふえてゆく、こうして過剰生産が発生するのである。
 このありさまをみて危険を感じた銀行は警戒体制をとり新規の貸出しや手形の割引を制限する。そこで、産業資本家や商業資本家のあいだに「金づまり」がおこる。
 過剰生産が最初どの部門に発生したものであろうと、倒産や操業短縮によるクビ切りは、労働者の消費力を絶対的に減退させる。その結果、過剰生産は全生産部門に波及する。だれの目にも明らかに「生産と消費の矛盾」が爆発したわけである。


 8年ないし11年、平均してざっと10年の周期をもって、規則正しく、恐慌がおこってきた。このことは、資本主義にとって恐慌は不可避的な(さけられない)ものであるということを、はっきり示している。

 恐慌は、働く人びとに厄災をあたえる、いまわしいものである。ところが、その恐慌も大資本いとっては、まんざら、わるいばかりのものではない。
 第一に、恐慌時には株が暴落している。だから大資本にとっては、この値下がりした株を安く買い占めたり、つぶれそうになった企業を二束三文で丸ごと買いとってしまう絶好のチャンスなのである。事実、恐慌のたびごとに、大資本は、中小資本を併呑し、資本の集中・独占をつよめてきた。
 第二に、大資本家は、合理化を強行し、労働者のたたかいの成果をうばいもどすために恐慌、不況を利用する。
 《不況もまた、考えようによっては、わるくない。不況になると、ふだんやれなかった経営の合理化に思いきった手をうてる。労働組合だって、低姿勢になる。上げすぎた賃金をひきもどすチャンスだ。》
 さらに恐慌のときには、政府は軍需注文によって大企業に仕事と利潤をあたえるために軍事費を大増強しようとする。また、人民の生活防衛の闘争が激化するから、これを弾圧するための治安体制の強化、政治的反動化が強まる。さいごには、他国の領土・資源・市場をうばいとる方向で恐慌を克服しようとして軍備増強と侵略戦争への危険が高まる。

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参照→【転記】アベノミクスで本当に景気がよくなったら 腹切ってやるYO!