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<a href="http://secret.ameba.jp/frederic-chopin/amemberentry-12007269621.html">『経済学入門 / 林直道』を読了③</a>

第Ⅱ篇 経済の歴史と未来

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第1章 労働と生産の歴史

 目的にしたがって手または手の延長である道具をつかって自然界にはたらきかけることを労働という。人間と動物のちがいは、労働するかどうかというところにあったのである。
 人間はさまざまの道具をつくり、古くなればとりかえ、どんどん新種を発明する。だから人間の身体器官は無限に補強され延長される。こうして人間は万能の力を身につけ、自然を征服することができたのであった。


 労働によって、生活上の必要物をつくりだすということ、――いうまでもなく、それが《生産》である。生産がおこなわれなければ、人間は生きてゆくことができないし、社会の発展もない。だから生産こそは、社会生活のなかで最も重要なことがらである。
 労働過程の諸要素――労働、労働対象、労働手段――が一つに結びつき、物資を生産する力として働くようになったものを生産力という。生産力は、人間の自然を変革する能力の発達水準をあらわしている。
生産力を構成する基本要素は、人間の労働と、過去に人間の労働がくわえられた生産手段とである。
 物的な生産力のうちで最も重要な役割をえんじたのは、生産用具であった。さまざまの時代の経済の発展水準を見さだめるうえでは、その社会で、なにが、どんな生産物がつくられていたかということは二の次の問題であって、それよりも、どのようにして、どんな用具をつかって生産がおこなわれていたかということが大切である。生産用具の遺物は、滅亡した過去の社会の経済の構造を知る重要な手がかりであって、それはちょううど、絶滅した動物の遺骨をみるとその動物の身体組織がわかるのと同じである。


 最大の事件は、いうまでもなく近代的な機械の出現である。
 機械制生産は、18世紀から19世紀20世紀にかけての産業革命をつうじて確立された。

 生産力の発展とともに、人類が生活資料をつくりだすために働かねばならない時間も、少なくてすむようになった。大昔の人間は朝早くから夜おそくまで十何時間も働かねばならなかった。現代の世界では八時間労働あるいは七時間労働が基準である。将来はこれが四時間労働あるいは三時間労働ということになるかもしれない。そうなれば、もう労働はほとんど苦痛ではなくなる。芸術と科学とスポーツのための、その他もろもろの人間的資質の向上・発達にあてられる大きな自由時間がかくとくされる。人類の未来は光に輝いているのである。

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第2章 経済制度の歴史

 生産にたずさわっている人間と人間とのあいだでは、かならずなんらかの社会的な関係がとりむすばれる。
生産における人と人との関係(社会的関係)を生産関係とよぶ。前章で述べた「生産力」が人間と自然との関係をあらわしたのにたいして、「生産関係」は、人間と人間との社会的関係をあらわしている。経済制度とはこの生産関係のことであって、この生産関係をもとにしてそれぞれの社会(「経済的社会構成体」)の骨格が形成されるのである。
生産関係(経済制度)の基本を決定するのは、生産がおこなわれるとき、「生産手段をだれが所有しているか」ということ、つまり生産手段の所有形態である。生産関係のタイプは大きく分けてつぎの二つからなる。

 第一は、生産にたずさわる人びと全体が生産手段の所有者であるというばあい。たとえば原始時代の共同体がそうであった。
また社会主義でもそうである。
 生産手段が社会全体の所有物であるばあいには「階級」というものは存在しない。人びとは、たがいに平等な関係におかれており、搾取ということがおこらない。したがって搾取のシステムを維持するための、階級間の支配・従属という関係は存在しないのである。

 第二は、生産手段が人びと全体の所有ではなく、特定の人間集団だけが生産手段を所有し、ほかの人間集団は生産手段を所有していないというばあいである。このように生産手段の所有関係、そこから生じる生産上の地位によって区別される人間集団が階級である
奴隷制度、封建制度、資本主義の三つが階級制度である。
生産手段を所有する階級と、生産手段を所有しない階級とのあいだには支配―従属の関係が生まれた。そして所有階級は、労働することからはなれ、もっぱら労働を監視・管理する立場にまわり、生産物の大きいわけまえをとった。これにたいして、所有しない階級は、労働の仕事を一手に引きうけながら、生産物の少ないわけまえしかもらえなかった。つまり、その労働の生産物の一部分を搾取された。そこで二つの階級のあいだには、階級的な利害対立にもとづく階級闘争がくりひろげられたのである。

 以上のような、生産手段の所有ということを中心にしてかたちづくられる人間と人間との関係、すなわち生産手段の所有関係、生産における人間と人間とのたがいの地位(相互協力か支配従属か)、生産物の分配関係などを、ひっくるめたものが「生産関係」である。

生産関係の型生産手段の所有支配する階級支配される階級
原始共同体共有(階級はまだ発生していない)
奴隷制私有奴隷所有者階級奴隷階級
封建制度私有封建領主階級農奴階級
資本主義私有資本家階級労働者階級
社会主義(低い段階)
      (高い段階)
共有(労働者階級とコルホーズ農民階級)
(階級は消滅する)

 これらの生産関係は、生産力(自然に働きかけて物を生産する力)のそれぞれの発展段階におうじて形成された。たとえば、生産力がきわめて貧弱なために人びとが共同で労働する以外に自然の猛威にうちかつことができなかったころには、それにふさわしい原始共同体という生産関係が存在した、生産力が発展してゆくと、それに対応した新しい生産関係が出てこざるをえなくなり、この新しい生産関係は生産力のいっそうの発展に道をひらく。ところが、やがてこの生産関係も古くなり、生産力の発展に役に立たなくなって、またべつの新しい生産関係にとってかわられる。……このように生産力の発展を基礎として、つぎつぎと生産関係が交替してきたのである。
 原始共同体が崩壊して奴隷制度に移ったばあいのほかは、経済制度の交替は階級闘争と社会革命をつうじておこなわれるのがふつうであった。


 人間のいちばん最初の経済制度は原始共同体とよばれている。共同体の内部では、人間の性や年齢による体力のちがいにおうじて「自然的な分業」がおこなわれていた。
 この社会では生産物の分配は共同体のメンバーのあいだに平等におこなわれていた。それは、この社会では土地や労働用具など、すべての生産手段が共同体全体の共同所有物となっていたことによるものであった。人類史の始源は、こういう原始的な共産主義の社会であった
私有財産制度(生産手段の私有制)に馴れてしまった人びとは、このエンゲルスの学説をなかなか認めようとはしなかった。けれどもその後いろいろの学者の研究や旅行者の見聞によって、それが事実であり、科学的な正しい主張だということがたしかめられている。
 だが、搾取がなく、平等だといっても、原始共同体をすばらしい社会とみるのはまちがいである。生産力が低かったから、人びとの生活はみじめであった。
 生産手段の共有、生産物の平等分配というこの時代の経済制度は、じつは、この社会の生産力の低さからきたことであった。
この時代の生産用具は、
ひじょうに幼稚で貧弱なものばかりであった。だから、狩りをするにも、共同体の人間が総がかりで、力をあわせてしなければならなかった。そこで生産手段は共同体全体の共有物となったのである。また生産物はきわめて少なく、共同体メンバーを養うのに、せいいっぱいであった。だからだれかが余分にとることができなかったのである。つまり、労働手段の貧弱だったことが、集団労働を必然的なものとし、このことが生産手段の共同体所有と平等分配の制度を生みだしたのであった。

 ところが、労働手段が進歩し生産力が発達してくると、もはや共同体が総がかりで生産にとりくまなくても、数人単位で生産することができるようになった。そこでいちばん近い血縁の集まりである家族という小集団が共同体のなかに出現した。家族は、歴史のはじめからあったのではなく、生産力があるていどすすんだ段階に生まれたものである。いまや家族が生産の単位となった。そこで生産手段もだんだん個々の家族の私有物にかわっていった。
生産物の余剰ができるようになり、富んだ家族と貧し家族とへの文化があらわれた。こうして原始的共産主義経済はしだいに崩れていったのである。

 なお、原始共同体制度は、おおむね母系社会であった。これは、男のおこなう狩りよりも女の牧畜・農耕のほうが収穫が確実だったことによるものであった。さらに、この時代の結婚は一夫一婦でなく乱婚だったので、子どもの父親がだれなのか、はっきりしなかった。だから財産は女親から女の子をつうじて相続され、他部族へ富が流れ出るのを厳重に防いだ。生産力がすすんで、人びとが家庭に定着し、農業・牧畜が主な仕事になり、しかも体力のいる生産用具(動物にひかせるスキ)がつかわれはじめると、男のほうが経済的に重要な役目を果たすようになった。そこで母系制は滅んで家父長制度にかわったのである。


 私有が発生すると、いままで共同体の指導者すなわち族長だったり、祭司役をつとめていたものが、その地位を利用して共同体の共有財産をしだいに私有物にかえてゆき、いちばん多くの富をたくわえるようになった。ところが、生産用具の発達、生産力の発達は、もう一つの重要な変化をもたらした。それは労働によって人間が剰余生産物を、すなわち自分の生活に必要な分量以上のものを、つくることができるようになったことである。このことは、ほかの人間を働かせ、その剰余生産物をとりあげること(「剰余労働」を搾取すること)が可能となったことを意味している。こうなると、いくさの捕虜の運命に変化がおこった。
 争いがおわると、捕虜が共同体へつれてこられた。生産力が低くて、人間の労働によって自分の食べる分しか生産できなかったころには、捕虜を働かせてその剰余生産物をとりあげることができないから、捕虜は殺され、喰われてしまった。原始人が人喰い人種だったのはそのためであった。
 ところがいまや、その捕虜が労働するならば、この捕虜が生きてゆくのに必要な分と、なおそれ以上のいくらかの剰余の生産物とをつくりだせるようになった。そこで、捕虜を殺さないで、労働させ、その生産物を搾取するということになった。つまり捕虜は奴隷となったのである。
 捕虜だけではなくて、共同体のメンバーのなかからも奴隷になるものがでてきた。
 こうして社会は、「奴隷所有者」と「奴隷」という二つの人間集団、すなわち二つの階級に分裂したのである。
 奴隷所有者階級は、いつ奴隷が反抗しても、これを鎮圧できるように、とくべつの機関をこしらえ、武装した人間を常置した。この階級的抑圧機関が国家である。
 さて、奴隷制という経済制度(生産関係)の特徴は、支配階級が生産手段を私有しているだけでなく、奴隷をも生産手段と同じように私有していたことである。奴隷は、同じ人間でありながら、人間としては扱われなかった。

 奴隷制度は、たえず新しい奴隷が供給されなければ、成り立たない。そこで奴隷かくとく戦争がひんぱんにくわだてられた。このばあい軍隊の主力を構成したのは、自由民すなわち小農民と手工業者であった。ところが、かれらは生産物の一部を商品として市場で販売したが、奴隷所有者の大経営でつくられる安価な商品との競争にうちまかされるため、貧しかった。そのうえ、うちつづく戦争で、国家の租税とりたてがひどくなったために、しだいにおちぶれていった。そこで軍隊が弱くなるのは当然だった。敗戦がつづいた。新しい奴隷は、もう手に入らなくなった。奴隷が不足したので、奴隷制は頭うちとなり、経済はおとろえていった。
 奴隷制度にとどめをさし、これを崩壊させたのは奴隷の反乱であった。社会を袋小路からすくいだし、経済をいっそうすすんだ、高度な段階へおしあげたのは、奴隷の階級闘争の功績だったのである。
 けれども、奴隷は、自分たちが主人公となって、搾取と抑圧のない社会をつくりだすことはできなかった。


 奴隷反乱のためにゆきづまったもとの奴隷所有者たちは、譲歩せざるをえなくなった。かれらは、奴隷の身分を解放し、奴隷に小さな土地を分与し、農具や作物のタネや食料をあたえて、耕作させるようにした。
 封建制度という経済制度の特徴は、領主が大きな土地を所有し、それを農奴に分与し、そのかわりに、農奴の労働を搾取したことにある。ここで注意を要することは、農奴は、奴隷とちがって自分の経営をもっていたことである。かれらは、土地を所有することはできなかったが、農具を所有し、自分の計算と責任で生産をおこなった。だから、かれらは、自分のとりまえをふやすために、収穫全体をふやそうとして労働意欲をもやし、能率をたかめた。こうして封建制奴隷制よりも生産力の発展をうながした。
 中世の農民は、奴隷よりはましだというものの、やはり完全な人権をみとめられず、領主にたいして身分的に隷属していた。
領主は農奴の剰余労働を搾取するために、法律をつくって農奴を土地にしばりつけた。
領主は農奴の剰余労働を、地代(ただし封建地代)というかたちで搾取した。


 資本主義は、まず封建制度の胎内で生まれて、だんだん成長し、ついには封建制度を滅ぼして、これにとってかわるというようにしてできた経済制度である。
 資本主義の出発点は、封建制度の内部にあった小商品生産である。
小商品生産者(略して小生産者)が分解して、そのなかから資本家と労働者が生まれたのである。
 資本家が発生するのにふたとおりの道順があった。まず小生産者のなかから、一部の者がカネをたくわえ、生産規模を大きくするのに成功して資本家になる、そして昔の小生産者のうちでおちぶれた人びとを、賃労働者としてやとうようになる。
もう一つは、商人が産業資本家になり、小生産者を賃労働者にかえてゆくという「問屋制家内工業」のコースである。商人は、はじめ、小生産者の生産物をやすく買い占めるという方法で大きな利益をあげていた。生産量をおおくするために、商人は、小生産者にたいしてカネや原料の前貸しをおこなったり、ついには商人じしんが作業場をつくり、小生産者をそこへ集めて働かせる。こうして商人は事実上の資本家になり、いままでの小生産者は事実上の賃労働者になってしまうのである。

 資本主義が、封建制度にとってかわり、社会の経済体制としてひとりだちするまでのあらましをかんたんに説明しておきたい。
 まず最初は絶対主義という政治制度ができたことである。絶対主義は、絶対王政ともよばれ、絶対権力をもった国王の中央集権的政治体制をさしている。これは封建時代のおわりごろ、どの国にもあらわれた。
日本では明治の天皇制などがその例である。このような絶対王制の出現は、じつはつぎのような、経済の変化によってうながされたものである。封建時代の後半には、生産力が発達し、資本主義生産がおこりはじめた。都市と農村の社会的分業がすすみ、また各地の経済的なむすびつきができた。こうして国が一つの経済的単位となり、「国民的市場」が形成された。
ところで、商品経済が発達するためには、自由に物が生産され、自由に生産物が売買できるという社会のシステムが必要である。ところが、封建領主たちが国を細分し、べつべつの法律をさだめ、領内を通過する商品にいちいち関税をかけていたことは、商品経済の発達のひどいさまたげであった。だから、国王が自分の権力をつよめるために、領主たちの分割支配を廃止し、政治を中央集権化したとき、商人や資本家はこれを熱心に支持したのである。
 絶対君主は、封建領主階級の頭であった。けれども、かれは国王であったから、国力を強くする必要があり、そのためには財貨をかせいでくれる商人や資本家をほかの封建領主たちの圧迫から保護し、便宜をあたえてこれを育てなければならなかった。この資本家があとになって国王を滅ぼすのである。

 資本家階級ははじめ自分たちがまだヒヨコであったあいだは絶対君主に庇護されていたが、じぶんの実力ができてくると、資本主義のこれ以上の発展のじゃまになる絶対君主制をうちたおし、封建制度を葬ってしまった。これが「ブルジョア革命」である。
 ブルジョア革命のさいに、封建勢力とたたかっていちばん奮闘したのは、農民であった。かれらは平等と、徹底的な民主主義を要求した。
けれども農民は、権力をとったり自分たちが主人公になる経済制度をつくることはできなかった。革命の成果をかすめとり、封建領主にかわって社会の主人公となったのは資本家階級であった。
 封建制度の胎内から生まれでた資本主義は、はじめのあいだは生産力の急速な発展に役立つ進歩的な経済制度であった。またそれは身分制度や人身的隷属を打破し、すべての人びとにたいして法律のまえの平等をつくりだした点で人類解放の歴史的な流れのなかで重大な進歩を実現したものであった。
 しかし、資本主義経済はその内部に、どうにもならない矛盾・対立をはらんでいた。
こうした解決不能な現象は、資本主義という経済制度がけっして永遠につづきうるものではなく、おそかれ早かれ崩壊して、より高度な経済制度へ移ってゆかざるをえないということを示している。

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参照→【転記】+法原理の解説 社会のすべては経済関係が土台+
【転記】今の時代の感覚で、歴史を観てはいけない?
【転記】差別をなくすには

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第3章 独占資本主義=帝国主義

 独占資本主義の第一の特徴は、生産の集積である。
独占資本主義の国ぐにでは、重要な産業部門は、いずれもそれぞれほんの数個の巨大企業によって、その生産物の圧倒的な部分をにぎられてしまっている。これらの巨大企業はたがいにていけいし、たがいのあいだの競争に一定の制限をくわえ、市場をかれらだけで独占的に支配しようとする。
 生産と集積の結果として、自由競争のなかからその反対物である独占が発生した。自由競争は独占に転化したのである。
 ただし、独占があらわれても、競争がなくなるわけではない。

独占体(独占資本)こそは、現代資本主義の富の大部分をにぎり、社会のすべての階級・階層を搾取している支配者である。
製品を「独占価格」で売ることによって、ひろく消費者大衆のふところからも独占利潤を吸いとっている。
 さらに、独占体のボロもうけの最も大きな源は、中小企業にたいする収奪である。
 税金の面でも、中小企業は巨大企業にくらべて非常に不利な税制をおしつけられている。「租税特別措置」による大幅な減税・免税の特典をうけるのは独占企業ばかりである。
 経済評論家のなかには、「大企業と中小企業とは、一種の分業であって、それぞれべつべつの守備範囲をもって、共存・協力しあうあいだがらである」などと主張する人があるが、現実はそんな甘い、美しいものではけっしてない。


 独占資本主義の第二番目の特徴は、銀行が経済のなかで大きな役割を演ずるようになり、この銀行が産業独占体と融合して、その支配体制の一部分となったことである。
 巨大独占銀行は、産業や運輸、商業などの部門の独占企業と結びつきをもち(融資)、だんだん血がまじりあい(株式の持ちあいや重役の派遣)、ついには一つのものにとけあってしまう。こうした産業独占体と銀行独占体とが融合したものを金融資本とよぶ。これこそ完全な意味での「独占資本」である。
 コンツェルンの中枢部を占める少数の金融資本家の一群が資本主義国の政治経済の中心をにぎり、国民生活を支配している体制を金融寡頭制とよぶ。
 この金融寡頭たちの全国的な結集体として、経済団体連合会(経団連)、経済同友会日本工業倶楽部などがある。


 独占資本主義のもとでは、さらにすすんで国家独占資本主義があらわれる。国家独占資本主義とは、独占資本と国家とが単一の機構に結合したもののことであって、独占資本支配の最高度の段階の産物である。
 国家独占資本主義の本質は、社会生活上での最も強制力の強い組織である国家という機構を用いて、独占資本主義を経済的危機から救いだそうとするところにある。
 資本主義体制の全般的危機とよばれる時代に突入し、経済面でも、「以前には存在しなかった困難がつぎつぎとあらわれた。
そこでこういう状態を切りぬけるために、国家が全面的に経済活動に介入するにいたった。

 このように政界(政治家や官僚)と財界(独占資本)とがぴったり結びついている国家独占資本主義のもとでは、買収・贈賄・汚職のおこるのはさけられない。
 金融資本家は、保守政治家に政治資金を与え、これを自分の思いどおりにおやつるだけではない。かれら自身が政界にうって出て、政治上の需要なポストにつく。
 アメリカではウォール街の独占資本家がズラリと顔をそろえて直接に政権を担当している。
 軍需注文や海外投資によって、ばく大な超過利潤をあげている、こういう大独占企業の社長・重役が、アメリカの最高政策を決めるのだから、それがアメリカ金融資本の階級的利益にろこつに奉仕することになるのはとうぜんである。


 独占資本は、外国へ商品を輸出するだけではなく、多民族からばく大な利益を吸い上げるために、外国、とくに原料資源が豊富で労働力の安い後進国や、ひろい販売市場をもった国ぐにへ資本を投下する。これを資本の輸出という。資本輸出、これが独占資本主義の第三番目の特徴である。十九世紀の後半、資本主義の発達にともなって、資本が過剰になり、国内に有利な投資場面が少なくなるにつれて、資本輸出がさかんとなり、ついに独占資本主義の時代には、資本輸出は商品輸出よりも重要な地位を占めるにいたった。
 資本輸出はばく大な超過利潤をもたらす。
 独占資本はとくに利潤率の高い一、二の農畜鉱産物をえらんで集中的に投資し、ほかの分野には目もくれないので、後進国の経済は「モノカルチュア」=単作経済とよばれる一面的、奇型的な構造となり、経済自立が困難にされる。
 こんにち、とりわけ非産油途上国の諸国民はおそるべき貧困のもとにある。
南北問題(貧しい南と富める北との対立)とよばれるこの後進諸国の貧困の原因は、途上国内部の封建的土地所有の遺物と、帝国主義の搾取すなわち独占資本の資本輸出による超過利潤の吸い上げにある
 日本の大企業は、むかし、朝鮮や中国北東部(満州)をはじめ、アジア各地に資本を輸出し、超過利潤を吸い上げていた。ところが、第二次大戦後、そうした勢力圏をすっかり失い、あべこべに、アメリカから資本輸出される立場となった。戦後、アメリカ独占資本は、日本の低賃金と大きな人口、広い市場をねらって対日投資をふやし、技術導入料、株式配当、借款の利子、などのかたちで、日本から年々、巨額のカネを吸い上げてきた。
 しかし、これと同時に、高度経済成長とよばれる60年代の日本の急速な発展をつうじて、日本の独占大企業も資本を蓄積し、自前の資本輸出をどんどん増大させた。

 こんにちアメリカを先頭とした最大級の国際独占資本は、多国籍企業とよばれている。


 国際独占資本は、民族政権によって国有化がおしすすめられることをおそれ、資源の独占、利権確保のために、相手の国の内政に干渉し、右翼反動勢力を育成し、かいらい政権をつくったり、独裁政権にテコ入れしつつ、民族解放闘争や民主化闘争を弾圧している。


 独占資本は、資本輸出によるボロもうけを永久に確保しようとする。もしも相手の国の人民が、外国資本を没収して国有化したりすると、独占資本にとっては元も子もなくなるから、そうさせないために、その国に植民地体制をしき、しっかりと政治的・軍事的に支配する。相手の国に総督府をおいて直接統治するばあいが植民地である。一応相手の国に政府をつくらせ、形式上は独立国のようだが、実際にはこれを政治的・軍事的支配下においているばあいを従属国という。
 19世紀のころは、世界中にまだ資本主義の征服していない「処女地」がたくさん残っていた。ところが20世紀になると、もう、地球上、くまなく独占資本の支配がゆきわたり、世界は、おもな帝国主義諸国によって領土的に分割されおわった(世界の領土的分割の完了)。そこで世界の帝国主義のなかで、ほかの帝国主義国よりも速いテンポで経済力をぼう張させた国が出てくると、この国は、自分の実力にくらべて自分があまりにわずかの植民地しかもっていないと強い不満をもち、もっとたくさんの植民地を手に入れようとして行動をおこす。ところが世界中の領土の分割がすでに案量しているのだから、新しい領土を手に入れるためには、ほかの帝国主義国のにぎっている領土や半植民地(たとえば中国)、および新たに成立した社会主義国の領土をうばいとるしか道がない。そこで、不均等発展をとげた国、かつてのドイツ帝国主義や日本帝国主義が火つけ人となって、帝国主義国による世界再分割のための大戦争がおこった。これが第一次世界大戦(1914-18年)、第二次世界大戦(1939-45年)の基本的原因である。

 現代帝国主義は、昔ながらの植民地支配を維持することが困難となり、いちおう相手民族に独立国の形態をとらせつつ、軍事援助や経済援助のヒモで相手国をがんじがらめにし実際上は植民地的支配下におくという、新植民地主義なやり方が主要なものとなった。
 しかし、帝国主義の支配が最終的な危機においつめられたばあいには、帝国主義は武力攻撃を辞さない。ベトナムキューバに対するアメリカの侵略、
などはこうしておこった。
 その意味で、帝国主義こそは、依然として「戦争と抑圧の根源」なのである。

 高度に発展した資本主義諸国における社会進歩の道すじとして、重要な意義をもってきたのが、いわゆる経済民主主義である。
 「経済民主主義」とは、一国の経済がその国の大多数の人びとの生活を守り向上させるために、すなわち人民本位の方向で運営されることをいう。
 こんにち、高度に発展した資本主義国では、巨大独占企業が経済界で絶大な力をふるっており、その企業としての私的利潤追求のためになされる経済行為が社会生活に絶大な影響を与える。国民の経済生活はほとんどそれによって運命を左右される。たとえば、ある産業で大企業がいっせいに海外進出を決定し、国内工場を閉鎖する方針をとれば、国内で失業がふえ、関連中小企業は仕事がなくなって倒産する。またある巨大スーパー資本がある地方へのチェーン網の拡大・確立の経営戦略を遂行すれば、その地方の小売商売が何百何千とおしつぶされる。大メーカーが原材料コスト増を製品価格へ上乗せ転化すれば、消費者物価の値上がりがそれだけ加速される。大観光資本がある地域で土地を買いあつめ、ドリームランドなどを建設すれば、そのやり方いかんで自然環境は破壊され、国土利用のゆがみが生みだされる。
 そこで国民の生活と経営を守るためには、この巨大企業の活動を、「私的営業の自由」などといって放置するのでなく、これに一定の民主的規制をくわえることが、必要になる。大独占企業による労働者への超過搾取の規制、中小企業いじめの規制、独占価格つり上げの規制、公害たれ流しの規制、等々。
 第二に、現代の国民生活上の難問や中小企業・農業などの経営の困難を打開するためには、社会の総括者である国家のがわからの積極的な政策による援助が不可欠である。ところが現在の国家の政策は大企業優遇を軸としている。つまり国家独占資本主義のメカニズムができ上がっている。そしてその大企業優遇の分だけ、国民多数へのシワよせとなっている。そこで、この大企業優遇を軸とした国家独占資本主義の経済への介入のしくみを、大多数の国民の生活と経営を守り向上させるしくみへと転換させることが、必要となってくる。
 第三に、こうした体制のもとで社会的再生産がすすむように、国家のもつ高度な社会的運営の機構がフルに活用されねばならない。いわゆる民主的計画化の問題である。
 以上が経済民主主義の中心点である。
 経済民主主義は政治的民主主義とかたく結びついている。
 ――経済民主主義の徹底、政治的民主主義の徹底、それをつうじてよりよき未来へ。これこそ、高度に発展した資本主義のもとでの社会進歩の基本的道すじである。
 この民主主義は現在の経済的支配層である独占・金融資本にたいして要求されるものであると同時に、また大衆運動の内部でも確立されなければならない。とくに労働組合の民主的運営、組合員の政党支持の自由などの初歩的原則が重要である。そうした資本主義のもとでの民主主義の機構とその修得とをつうじてはじめて個人の民主的自由を尊重した真の社会主義が建設されるのである。

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参照→【転記】+超経済学入門 ~景気回復策を中心に~+
【転記】これからの世界経済の歩む道

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第4章 社会主義

 社会主義経済とは、生産手段の社会的所有制を基礎とし、一部の人びとの利潤かくとくのためではなくて社会全体の利益のために生産がおこなわれる経済制度のことである。
 社会主義制度の誕生は、過去の歴史全体、とくに資本主義経済そのものの発展によって準備されたものであった。すなわち、資本主義の内部で進展した生産の社会化こそ、社会主義経済が生まれるための物質的前提であった。
 このような生産の社会化の結果、すべての生産物は、多数の人びとの協業と分業の(工場内および社会内)総合的な産物となった。
 資本主義の独占段階への移行は、この生産の社会化を極度におしすすめた。
 このように生産の社会化が高度に進行したとすれば、この生産力の水準と状態に照応した(ふさわしい)生産関係は、生産手段の社会的共同所有を基礎とするもの、すなわち社会主義でなければならない。だから社会主義経済制度は、歴史の必然的な到達点として、客観的な社会の発展法則にしたがって生みだされるものである。


 従来の社会革命は、奴隷制から封建制への転化のばあいでも、封建制から資本主義への転化のばあいでも、結局一つの搾取形態を他の搾取形態におきかえるにとどまった。ところが資本主義から社会主義への革命的転化は、すべての搾取制度を一掃絶滅するものとして、人類史上、真に根底的な革命を意味している。だから、国内の搾取階級や外国帝国主義は、この転化過程を阻止しようとはげしい抵抗をこころみる。
 資本主義から社会主義への革命的転化の時期には、必然的にこの時期に照応した政治上の過渡期が存在することになる。この過渡期にはプロレタリア執権とよばれる独特の国家があらわれる。
 他のすべての国家の目的は搾取体制の維持・拡大であるのにたいして、プロレタリア国家の目的は搾取制度の絶滅である。だから搾取階級が一掃され、帝国主義が消滅し、社会主義体制の建設と共産主義への移行が完全に確立されれば、この特殊な国家は必然的に消えうせる。国家は死滅するのである。


 社会主義は資本主義とくらべてつぎの二点で根本的にちがっている。
 第一は、人間による人間の搾取の消滅である。
 以上のものを控除した残りが各個人に分配される。それは名前は賃金であっても、資本主義のもとでの賃金のような、労働力商品の価値ではない。社会主義のもとでは、労働力はもはや商品ではなくなっており、剰余価値は消滅している。
 第二の点は、経済の計画的・意識的統御が可能なことである。生産手段が社会的所有にうつされているため、資本主義のような経済恐慌はもはやおおらなくなっている。

 これと関連して、社会主義では資本主義よりも経済発展の速度がはるかに急速である。これは、恐慌・不況にる周期的な生産力破壊が生じないこと、資本主義のような大ががりな宣伝・広告のための出費がいらないこと、寄生的階級の不労所得にもとづく富の浪費がなくなること、さらに、資本の利潤原則にさまたげられることなしに社会全体の協力下に科学技術を開発しまたその成果を利用できること。などのためである。


 高度に発展した生産力を物質的基礎とし、生産手段の社会的所有という生産関係(経済制度)を土台とする点では、社会主義共産主義も同じであるが、両者のあいだには生産力の点でも生産関係でも重要なちがいがある。
 まずなによりも、社会主義社会の生産力はまだありあまるほどの物資をつくりだすというところまでは達していない。共産主義の実現のためには、はるかに高度な生産力が前提される。
 第一に、生産手段の社会的所有制度のなかに、国家的所有=全人民的所有のほかに、協同組合的(集団的)所有がのこっていることである。共同組合的所有は、革命前に存在した非プロレタリア的な小生産者(主として農民)の広範な層を社会主義的に改造してゆくための必然的な過渡形態であり、
全人民的所有よりも一段と低次の形態といわねばならない。これにたいして共産主義段階ではすべての分野が単一の全人民的所有制によってつらぬかれている。
 第二に、社会主義のもとではすべての成員の労働が、報しゅうをあてにせず自発的に社会公共のためにつくすという自覚的共産主義的労働になりきっていない。そこでは、各人はかれが社会に提供した労働の量におうじて消費資料を社会から返してもらう。各人は「能力におうじて働き、労働におうじてうけとる」。これはまだ等価交換のブルジョア的権利がつらぬいていることを意味する。これにたいして共産主義段階には、生産力が増大し、共同社会的富のあらゆる泉がゆたかに湧きだし、労働との対立はなくなり、個人の全面的な能力の発展が可能になる。この段階においてはじめて、ブルジョア的権利のせまい限界を完全にふみこえて、社会はその旗の上にこう書くことができる。――「各人はその能力におうじて働き、その欲望におうじてうけとる」と。それは人類の経済制度の最後の形態である。


 われわれは、人類の経済制度が、最初、原始的な共同体から出発したこと、そして生産力の発展の結果、この原始的共同体は崩壊し、私的所有と階級対立へおちこみ、奴隷制封建制・資本主義という三つの階級社会があらわれたこと、そしてさいごに生産力の巨大な発展を基礎として資本主義は、社会主義という個人の発展を基礎とした万人協同の組織へ必然的に転化すること、を述べた。この人類のたどった道は、大づかみにいえば、共同体―階級社会―共同体という三つの段階をえがいていることがわかる。資本主義から社会主義への移行は、平等と相互扶助という、一面では歴史の出発点であった共同体への還帰である。だがこの還帰はたんなる古いもの、原始的共同体の再現ではない。階級社会数千年の歴史のあいだに蓄積された生産力と文化および個人の発展を基礎とした、まったく新たな、高度な協同社会の出現である。
 人間が、人間による搾取にあえぎ、経済法則が盲目的必然として猛威をふるっていた時代にわかれをつげて、人びと全体の努力によって生産力を統御し、個性の全面的発達に道をひらくことのできる、そうした新しい時代への移行である。一言でいえば、「必然の国」から「自由の国」への飛躍である。

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補論 ソ連社会主義の崩壊と社会主義再生への道

 1917年、ロシア十月革命によって歴史上最初の社会主義国家としてソ連が地球陸地の六分の一の広大な地域に誕生した。
 ところが、やがて経済的困難が表面化し、1980年代末、ソ連社会主義は建国後70年にして荘ぜくな空中分解をとげ、それと相前後して東ヨーロッパ諸国の社会主義体制も崩壊してしまったのである。

 自由と民主主義を欠く官僚主義支配 ソ連はいわば月足らずで生まれた社会主義であった。一般に社会主義は高度に発展した資本主義を基盤にして生まれるものである。ところがロシアは経済的にはおくれた後発資本主義であり、また、おそくまで封建的な専制政治が支配していたので、政治制度や社会習慣において自由と民主主義の発達が立ちおくれた。
 ソ連が建国以来この70年間に行ったことがすべて誤りだったのではない。
社会保障を飛躍的に発展させた。
資本主義が30年代の大恐慌によって大量失業と倒産にあえいでいるとき、これと全く対照的に五カ年計画をどんどん成功させた。
 にもかかわらず、体制内にひそむ「自由と民主主義」の欠如、官僚主義支配の体質がしだいに拡大し、深刻な弊害をうみだしたのであった。
 農民のコルホーズ加入の強制
 上層部の特権の発生と現場の惰性的労働
 中央指令型計画経済 
 民族平等に反する社会帝国主義と過大軍事支出

 以上のように、ソ連の崩壊は、ソ連社会主義の原理・原則から大きく逸脱し、誤った道にふみこんだ必然的結果であった、社会主義体制というものがそもそも実現不可能な空想的なものだということの証明ではけっしてないのである。
 したがった、社会主義再生のためには、(一)政治・経済・社会の全面にわたって自由と民主主義を徹底し、官僚主義支配を根絶すること、(二)上層部の特権をなくし、労働者の労働意欲と創意を引き出すような職場の自由と民主化、(三)大国主義をすて、民族平等の原則に立誓えることが必要である。

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参照→【転記】似非左翼は社会の害でしかない

<a href="http://secret.ameba.jp/frederic-chopin/amemberentry-12006583741.html">『経済学入門 / 林直道』を読了②</a>

第8章 資本の循環と回転

 資本が貨幣資本(G)・生産資本(P)・商品資本(W')・という三つの形態をつぎつぎととっては脱ぎ、脱いではとりながら運動することを資本の循環という。またこういう運動をする資本が産業資本である。
 第一段階(貨幣資本が生産資本になる過程)では、生産のために必要な機械や原材料や労働力などが調達され、剰余価値生産のための準備がととのえられる。第二段階(生産資本から商品資本にかわる過程)では、剰余価値の生産がおこなわれる。第三段階(商品資本がふたたび貨幣資本にかわる過程)では、商品が販売され、貨幣形態で回収され、剰余価値が実現される。

 重商主義学説は、資本とは増殖する価値であるという本質を素朴に表現したが、生産過程を分析できず、流通過程の表面的現象をなでまわすにおわった。重農学派は、社会の総生産物がどこへ売られるか、だれによって買われるかという社会的再生産の道すじ、物財の流れの描写(経済表)をおなうことができたが、貨幣のもつ独自的意義を考えることができなかった。古典学派は、生産過程を重視し、労働価値説にもとづいて全経済現象を体系的に分析することに成功しえたが、しかし「原始人の石斧もまた資本である」という主張にあらわれているように、資本主義的生産を永遠の超歴史的な制度であるかのようにみなし、それのもつ歴史的独自的正確をみおとす結果となった。
 マルクスの『資本論』は、資本の運動を三つの循環形式の統一として把握することによって、従来の経済学の一面性を克服し、全面的・科学的な見地を確立したのである。


 資本の循環を一回きりのものとしてではなく、くりかえす過程としてとらえたものを資本の回転という。資本の回転がはやい速度でおこなわれると、同じ資本額によってえられる年間の剰余価値の量がそれだけ多くなる。
 生産時間のなかには、労働過程のおこなわれている労働期間だけでなく、労働過程が中断されている休日や夜間もふくまれている。そこで資本はこの労働の中断期間を圧縮しようとし、三交代制などをしいて夜も労働過程がつづくことをのぞみ、また休日もできるだけふやしたがらない。けれども、この問題で労働者の人間的要求と資本の剰余価値追求欲とが対立する。
 また労働期間のなかには、木工品や皮製品の乾燥や、ウィスキーの醗酵のように、労働対象自体の天然の変化にゆだねる時間もふくまれている。この時間には労働者の労働がつけくわわらないから価値や剰余価値は生まれない。そこで資本は薬品添加や熱処理などさまざまの方法を用いて労働対象の変化を人為的に促進し、この時間をできるだけ短縮しようとする。
 つぎに、資本が流通過程にとどまっている流通時間には、その資本は生産過程からはなれており、剰余価値をつくることができない。だから資本は、まずできるだけこの流通時間を短縮しようとする。資本主義企業が通信機器の発達や交通機関の高速化、高速道路建設を要求
も、そのためである。

 資本の回転の問題を考えるとき、重要な意味をもってくるのは、固定資本と流動資本という新しい資本区分である。
 固定資本とは、機械や設備、建物など主として労働手段に投下された資本のことである。
 原料や労働力は流動資本である。原料は一回の生産過程で価値をすっかり生産物へうつす。労働力も一回の生産過程でその価値が生産物のなかで(より大きな価値となって)再現する。

不変資本機械・設備等(労働手段)固定資本
原料等(労働対象)流動資本
可変資本労働力

 不変資本と可変資本の区別が生産過程における価値形成上の役割のちがいをもとにするのにたいして、固定資本と流動資本の区別は、価値の流通の仕方のちがいをもとにするものである

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第9章 社会的総資本の再生産

 「再生産」とは、生産が一回きりではなくてくりかえしておこなわれることである。資本主義社会が存続してゆくためには、毎年毎年、生産がつづけておこなわれなければならない。

 こうした社会的総資本の再生産がいったい「どのようにおこなわれるのか」、すなわち、一方では、生産されたすべての生産物がどこへ売られるのか、そして、他方では、次年度の生産に必要なすべての生産手段や消費資料がどこから買われるのか、どいう基本的な道すじ・流れを(すなわち、社会的再生産の法則を)明らかにしなければならない。
 そのためには、まず、つぎのような二つの角度から、社会的総生産物を諸部分に分解しておくことが必要である。
 第一は《二部門分割》すなわち、社会の全生産物を素材の観点から、「生産手段」(Ⅰ)と「消費資料」(Ⅱ)との二大部門に分けることである。
 第二は、《価値構成》すなわち、社会の全生産物を価値の観点から、「不変資本=生産手段の消耗分」(C)と「可変資本」(V)と「剰余価値」(M)という三つの価値構成部分に区分することである。
 そこで社会の総生産物はつぎの六つに分解される。
Ⅰ C1V1M1 (生産手段)
Ⅱ C2V2M2 (消費資料)


 単純再生産は規模不変の再生産ともいう。単純再生産のばあいには、剰余価値のすべてを資本家が個人的消費のためについやしてしまうので、社会の総生産物は、
つぎの六つの部分に分かれる。
 Ⅰ C1V1M1 (生産手段)
 Ⅱ C2+V2+M2 (消費資料)

 まず、生産手段の生産額は、C1V1M1 であらわされる。これを①としよう。
 つぎに、今年度の生産によって消耗した生産手段の大きさ、したがってまた次年度の生産継続のために素材的に補充される必要のある生産手段の価値額は、C1C2  (両部門の消耗不変資本)であらわされる。これを②としよう。
 単純再生産が円滑に、過不足なく進行していくためには、①と②とがひとしくなければならない。
 V1+M1=C2
これが単純再生産の条件である。

 こんどは消費資料のほうからみてみよう。
 まず、消費資料の生産額は、C2+V2+M2 であらわされる。これを③としよう。
 つぎに、社会全体で求められている消費資料の価値額は、両部門の労働者の賃金と資本家の剰余価値との合計、すなわちV1V2+M2M1 であらわされる。これを④としよう。
 単純再生産が円滑に、過不足なく進行していくためには、③と④がひとしくなければならない。そこで、
 C2V1+M1


 拡大再生産のばあいには、生産手段は、今年度の消耗分をうめあわしてなお若干の拡大用の剰余分が生産されていなければならない。
 C1V1M1C1C2
 あるいは、 V1M1C2 でなければならない。これが拡大再生産の物的前提である。
 拡大再生産では、剰余価値のうち一部分が拡大用不変資本(mC)および拡大用可変資本(mV)として留保され、これが資本に転化され、元資本(CとV)につけくわえられてゆく。その残りの剰余価値を資本家は個人的消費に支出するわけである(mK)。
 そこで拡大再生産のばあいには、社会の総生産物は、つぎの10個に区分される。
 Ⅰ C1V1+mK1mC1mV1 (生産手段)
 Ⅱ C2+V2mK2mC2mV2 (消費資料)
 拡大再生産が円滑に、過不足なく進行するためには、つぎの条件が必要である。
 V1+mK1mV1C2mC2
 これは第Ⅰ部門の労働者および追加労働者の賃金と資本家の個人的消費に向けられる剰余価値との合計が、第Ⅱ部門の消耗不変資本および拡張用追加不変資本との合計にひとしくなければならない、という意味である。


 現実には、この条件からの乖離こそがむしろ一般的である。現実の生産は不均衡が常態であって、つねにいくつかの商品種類には過剰生産=売れ残りが生じ、他のいくつかの商品種類にはぎゃくに過小生産・品不足が生じている。しかし、社会的再生産がおこなわれる以上は、どうしても再生産の条件が満たされなければならない。そこで過剰な商品は市場価格が価値以下に下がり、それの生産がへる。ぎゃくに品不足の商品は市場価格が価値以上に上がり、それの生産がふえる。このような市場価格のたえざる変動、資本のたえざる部門間移動をつうじて、再生産の条件が貫徹される。これが、ひときわ激しいかたちで生じるのが恐慌である。

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第10章 資本と利潤

 投下資本全体とくらべた剰余価値のことを利潤という。
 剰余価値を可変資本だけで割ったもの、M/V これが剰余価値率であった。これは、資本家が労働者を搾取する度合いをあらわしている。
 これにたいして、剰余価値を、不変資本も可変資本もひっくるめた資本全体で割ったもの、M/(C+V) これが利潤率である。利潤率は、資本がある分量の剰余価値を手にいれるために、どれだけの資本を用いなければならないか、をあらわしている。
 剰余価値は労働力によってつくりだされたものである。
利潤という形態のもとでは、不変資本と可変資本という資本の本質的な区別がぬりつぶされてしまうのである。
 しかし、資本家どうしの競争の世界では、利潤率が現実に生きて働いている。なぜなら利潤率が高いということは、同じ額の剰余価値をうるのに資本が少なくてすむこと、ぎゃくにいえば、同じ資本額でもってより多くの剰余価値がえられることを意味するからである。


 では利潤率の大きさを左右するものは、なんだろうか。
 第一は、剰余価値率である。剰余価値率が高ければ高いほど、利潤率も高くなる。
 剰余価値率が同じでも、利潤率にちがいをもたらすものがある。その一つは、「資本の有機的構成」である。
資本の有機的構成が高い部門ほど利潤率は低く、有機的構成の低い部門ほど利潤率は高いのである。
 もう一つ、利潤率の差をつくりだすものに、「資本の回転速度」の相違がある。


 できるだけ高い利潤を追い求めるのが資本の本性である。産業部門によって利潤率に差があるとすれば、資本が利潤率の低い部門をきらって、利潤率の高い部門へゆこうとするのはとうぜんである。このような資本の運動をつうじて、平均利潤率の法則が成立することになる。このことを、資本の有機的構成のちがいによる利潤率の差をもとにして説明しよう(回転速度の差による利潤率の差ははぶいておく)。
 表は、皮革、繊維、鉄鋼という、有機的構成のちがう三つの生産部門を例にとったもので、社会には資本主義的部門はこの三つだけしかないと仮定する。

皮革部門繊維部門鋼鉄部門社会全体
不変資本(C)
可変資本(V)
剰余価値(M)
もとの利潤率(M/(C+V))
70
30
30
30%
80
20
20
20%
90
10
10
10%
240
60
60
20%
平均利潤率
平均利潤(P)
平均利潤と剰余価値の差額
20%
20
-10
20%
20
0
20%
20
+10
20%
60
0
商品の価値(C+V+M)
生産費(C+V)
商品の生産価格(C+V+P)
生産価格と価値との差額
130
100
120
-10
120
100
120
0
110
100
120
+10
360
300
360
0

 三つの部門のうち、皮革は有機的構成が低いので、利潤率が高く(30%)、鉄鋼は有機的構成が高いので、利潤率が低くなっている(10%)。そうすると、資本家である以上、だれしも皮革部門へ資本を投下しようとする。
 ところが、このあと、たいへんな変化がおこる。
 まず、利潤率の高い皮革部門へは、どんどん資本が入ってくる。すると、皮革の生産が増大する。べつに皮革にたいする需要がふえたわけではない。だから、供給が需要を上まわってしまう。すると皮革のねだん(市場価格)が価値以下に下がる。ねだんが下がれば、皮革部門のじっさいの利潤率は下がってしまう。――利潤率が下がりすぎると、資本はほかの部門へ逃げだす。
 これとぎゃくに、利潤率の低い鉄鋼部門には投資する者がない。資本が減少する。需要にくらべて供給の少なすぎる状態がつづくと、鉄鋼のねだん(市場価格)が価値以上に上がる。ねだんが上がれば、鉄鋼部門のじっさいの利潤率は上がってゆく。――すると、資本がほかからこの部門へ流れこむ。
 高い利潤を追い求める資本の部門間移動によって、有機的構成のちがいから生じる各部門のもとの利潤率の差は、すっかりかきまわされてしまう。そして長い期間を通算してくらべてみると、さまざまの部門の利潤率のあいだにはあまり大きなひらきがなくなり、どの部門の利潤率もだいたい似たりよったりの高さになり、社会の平均的な利潤率の水準に近づくのである、この平均的な利潤率を平均利潤率という。それは、社会のすべての部門でつくられた剰余価値の合計額を、社会のすべての部門の資本の合計額で割った大きさである。
 表の数字でいうと、平均利潤率は、60M÷(240C+60V)で、20%である。部門から部門へとうごきまわる資本の無政府的な運動のために、皮革や繊維や鉄鋼のもとの利潤率の差がならされ、20という平均利潤率へ還元されたわけである。
 そして、投下資本にこの平均利潤率をかけあわせたものを平均利潤といい、これが各部門の手に入る。皮革の平均利潤は(70+30)×0.2=20 繊維のは(80+20)×0.2=20 鉄鋼は(90+10)×0.2=20 である。
 皮革部門では剰余価値が30つくられ、繊維では20、鉄鋼では10の剰余価値がつくられたのだが、じっさいに各部門の手に入ったのは、同じ20の平均利潤であった。
 社会のさまざまの部門でつくられた剰余価値がぜんぶひとまとめにされ、これが投下資本の大きさに比例した割合で各部門へ均等に配分しなおされたことになる。
 ひとつひとつの資本は、できるだけ高い利潤を追い求めているにもかかわらず、この盲目的な資本の運動によって、結果的には、各部門の利潤率が均等化されることを平均利潤率の法則
という。

 平均利潤率の法則は、各生産部門の資本家たちが利潤をうばいあっていあらそいながら、しかもかれらが共同の利益でつながっていることをハッキリと証明している。
労働者と資本家とは、その所属する産業部門のワクをこえて、たがいに階級として経済的に対立しあっていることが、この平均利潤法則によって証明されるわけである。


 平均利潤が成立するまでは、商品は価値を基準にして売買された。すなわち、商品の市場価格の変動の中心軸は価値であった。価値は、生産費に剰余価値をプラスしたもの、C+V+M であらわされる。Cは消耗された不変資本、Vは可変資本=賃金、Mは剰余価値である。
 ところが、平均利潤が成立すると、商品の市場価格の変動の中心は、価値ではなくて生産価格にとってかわられる。生産価格とは、生産費に平均利潤をプラスしたものである。記号でいえば、C+V+P であらわされる。Pは平均利潤である。
 個々の商品種類が価値を基準とした価格ではなくて、生産価格を基準としてた価格で売買されるということは、なんら価値の原理が無効になったということを意味するものではない。
 たとえば鉄鋼とは皮革とかいうように個々の商品種類をとってみると、たしかに生産価格の大きさと価値の大きさとは、くいちがっている。ところが、それらをひっくるめて、社会全体、商品全体についてみると、生産価格の社会的合計は360で、これは価値の社会的合計=360と、ぴったり一致することがわかる。つまりさまざまな部門、さまざまな商品を全部ひっくるめて社会全体でみれば、価値がちゃんと貫徹しているわけである。
部門間資本移動によって社会総剰余価値が部門間に分配しなおされた結果として、個々の商品種類ごとに価値の大きさと異なった生産価格が成立したのであって、この変化は社会総商品の価値を前提とし、そのワクのなかでおこっている事柄である


 ある部門で過剰生産がおこったとき、ほんとうなら市場価格が暴落して利潤率が下がるはずだが、独占資本は必死に価格をつり上げて、利潤の低落をふせぐ。また、ある部門で高い利潤率がえられているとしよう、
この部門を独占資本がにぎっているばあいは、さまざまの方法で防壁をきずき、ほかから新参の資本の入ってくることをじゃまし、高い利潤率をひとり占めしつづけようとする。このようにして、独占資本は平均利潤よりもずっと高い超過利潤をかくとくする。超過利潤は、独占以前の資本主義のもとでもあらわれたが、それは新式技術を採用したようなときに一時的にえられるだけであった。ところが独占資本は、いつでも独占的に超過利潤をかくとくしているので、これを独占利潤という。
 独占資本主義時代には、平均利潤法則は、いぜんとして作用しているが、これとならんではたらきはじめた独占利潤の法則によって、その作用をねじまげられるわけである。

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第11章 商業と信用。株式会社

 資本主義の発展とともに、資本家階級は三つのグループに分かれる。まず、生産をいとなんで、剰余価値をつくりだす資本が「産業資本」。産業資本家から商品をまとめて買いとり、その販売をうけもつのが「商業資本」。そして産業資本家と商業資本家とに、たりない貨幣を貸し付けるのが「貸付資本」である。


 商業利潤は、産業資本家が販売の仕事をやってもらう代償として商業部門へゆずりわたす剰余価値の一部である。
 商業資本の投下した資本とくらべた商業資本化の利潤の割合が、産業資本の利潤率よりも高いばあいには、資本の一部が産業部門から商業部門へ流れこみ、ぎゃくに商業利潤率のほうが低いばあいには、資本の一部が商業部門から産業部門へ流れだす、というようにして、商業もまた「平均利潤率」の形成に加わるわけである。

 広告や販売やそれと結びついた事務の仕事は、価値をつくりださない。
けれどもかれらは、商品の売買をおこなうことによって剰余価値を実現させ(実現とは貨幣形態にかえること)、そうすることによって商業資本家のために剰余価値のわけまえをつくりだしているのである。もし商業資本家が、商業労働者のつくりだした剰余価値のわけまえのなかから物的経費を差し引いたのこり全部を商業労働者にわたすなら、搾取は存在しない。しかし、商業資本家はそんなことはしない。かれらは商業労働者にたいして労働力の価値(賃金)だけしか支払わず、その差額分を無償で取得しているのである。

 広告費ひとつをとってみても、どんなに資本主義が富を浪費するものであるかがわかる。これらは資本ができるだけたくさんの利潤をえようとしてはげしく競争するために必要になるにすぎない。だが、これらの浪費分は商品価格につけくわえられ、消費者にしわよせされる。


 もう一つの資本グループは貸付資本である(「利子生み資本」ともいう)。資本主義社会では、
貨幣は、資本としてつかえるほどのまとまった額になると、平均利潤を生むという新しい使用価値をもつわけである。産業や商業の資本家は、もっとたくさん利潤をえようとして、仕事の規模をひろめるために、この貨幣を求める。貸付資本家はかれらに貨幣資本を貸し付けて、その代償に利子をとる。貸付利子が剰余価値の一部であることは、いうまでもない。
 銀行は、貸付用の貨幣を社会のすみずみから、かきあつめる。
 銀行は、これらの貯金にたいしても、預け入れの条件におうじて、さまざまの率の利子を払うが、それらはみな、貸付の利率よりずっと低い。この貸付利子と預金利子との差額のなかから、物件費や銀行労働者の賃金などの経費を払い、そののこりが銀行資本家の利潤になるわけである。
銀行業もまた平均利潤率の形成に加わる。
 銀行労働者もまた、銀行資本家のために剰余価値のわけまえをつくりだしながら、賃金として労働力の価格だけしか支払われず、その差額分だけ無償で労働を取得されているのである。


 一定期間、人に貨幣を貸し付けることを信用という。

 信用は、企業にたいして現金の必要を少なくさせ、生産の拡張をたすける。とくに銀行は、その巨大な信用機構をつかって、現金なしの取引を大規模に発展させた。
 銀行は非現金決済の方法を大々的に発達させ、社会的に巨額の貨幣を節約し、この節約分を生産拡大につかうことを可能にするわけである。
 
 信用は生産を極限まで引きのばし、結局は過剰生産をひどくしてしまう。資本主義につきものの「生産の無政府性」をいっそうはげしくするわけである。そのうえ、好景気がつづいて、債務の返済が順調なときはよいが、もしも過剰生産の徴候が見えてくると、銀行は容赦なく貸出しや手形割引を制限する。ぼう張しきっていた信用の上部構造が、まるで蜃気楼のように消えうせ、潤沢だった貨幣が、どこかへ姿をかくす。たちまち企業は「金づまり」におちいる。こうして信用は、恐慌の破壊力をいっそうひどくすることになる。
 銀行から信用をうけるとき、資本力のつよい大資本が有利な立場にあることは、明らかである。小資本は資本力がよわく、貸すほうとしては不安だからというわけで、銀行は小資本にはきびしい条件をつける。その結果、信用は、大資本と小資本の格差をいっそうひろげ、資本の蓄積と集中を促進する強力な道具となるわけである。


 創業者利得の圧倒的な部分をつかみとるのは、ばく大な貨幣資本をにぎっていて、これを自由にうごかすことのできる銀行、保険会社、証券会社などの金融機関の資本家や、巨額の利潤をたくわえている巨大産業資本である。創業者利得は、これら巨大資本の重要なもうけ口となっている。社会の一方では、毎日ながい時間働きとおしながら、ひくい所得しかえられない勤労者が多いのに、他方、巨大資本のもとでは、配当率と利子率のひらきというようなからくりを利用して、まるで魔法か手品のように、ゴッソリを巨億のカネがころがりこむ。これが資本主義のおどろくべき現実の姿なのである。


 しろうとでも、株式投機に手を出して、もうけるときがある。しかし長い目でみると、大衆はたいていそんをする。なぜなら、大衆は、株価の大変動をひきおこすような経済上・政治上の情報を的確につかむルートをもたず、ウワサをたよりに、あてずっぽうですすむほかないからである。これにたいして大資本家のほうは、経済界の変化は自分自身の力でおこせるものだし、政界・官界ともみっせつなつながりをもっているから、確実な情報にもとづいて手をうってゆくことができる。
 株式投機では、不労所得をかせぎたいと欲を出した中産階級や勤労者の一部が、貯蓄を大資本家にかすめとられるのである。

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第12章 地代と農業における資本主義

 地代は土地そのものが生みだすようにみえる。しかし、
価値をつくりだすのは、土地ではなくて、土地の上でなされる農業労働者の労働である。
地代もまた、利潤と同じように、労働者から搾取された汗の結晶なのである。


 生産価格は、工業製品のばあいはその平均の生産条件での価格で決まるが、土地生産物では、社会が必要とする生産量のうちもっとも悪い土地(最劣等地)の生産物の価格で決まる。なぜなら、土地は機械とちがって、資本を投下してもすぐよい土地をつくりだすことができず、もしその悪い土地では平均利潤がえられない価格に下がると、その土地は生産がおこなわれないため、社会の必要な需要が満たされないことになるからである。
 もっとも悪い土地以外の土地では平均利潤のほかに、超過利潤(余分の利潤)が生まれる。しかも土地のちがいはつねにあるから、この超過利潤はつねにできてくる。この超過利潤が差額地代(第一形態)となり、借地してる農業資本家はこれを地主にひきわたさねばならない。
 また、よく肥えた土地にさらに追加の投資がなされて、それが超過利潤を生みだすばあいは、この超過利潤も差額地代に転化される(これを差額地代の第二形態とよぶ)。土地の賃貸契約をきりかえるとき、地主は、それをふくめた額に地代を引き上げる。


 資本主義地代の第二の種類は絶対地代である。さきに述べた差額地代のばあいには、最劣等地には地代は生じないことになる。しかし、実際には、どんな悪い土地でも、地主に地代を払わないと耕作させてくれない。
  まず、農業では工業にくらべて資本の有機的構成が低く技術がおくれており、機械や原料にくらべて労働力を買うために投じられる資本の割合が高い。このため同じ大きさの資本では、工業よりも多くの剰余価値がつくりだされる。
 農業では、土地所有があるために、自由に資本が農業に入れない(地代を払わないと入れない)ために、この平均化がさまたげられ、農産物は、最劣等地での生産物の価値どおりか、あるいはそれに近い価格、したがって生産価格よりも高い価格で決まる。そして、この生産価格をこえる部分が土地所有者の地代となる。これが絶対地代である。


 土地は労働生産物でないから、もともと価値をもっていない。しかし、土地は価格がついて売買される。それは、なぜだろうか。
 土地には価値はないが、資本主義のもとでは、地主に年々地代がはいる。これは銀行に預金しておくと年々利子がはいるのと似ている。そこで、たとえば一ヘクタールの土地があり、年々地代が24万円だとすると、この土地をもつことは、年六%の利率の400万円の定期預金(年間の利子は24万円)をもっているのと同じになり、こうしてこの土地の価格は400万円になるわけである。

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参照→【地 代】 商品生産 - OCN


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第13章 国民所得と国家財政

 賃金労働者によって富がどのように生産され、それが有産階級のあいだでどのように分配されてゆくか、というメカニズムが、あらまし説明された。


 一定の期間、たとえば一年間に社会全体でつくられた財貨(これはみんな資本主義のもとでは、商品=商品資本のかたちをとっている)を社会的総生産物という。
社会的総生産物のうち、つかわれた不変資本の大きさに相当する分だけが生産手段のうめあわせにあてられる。社会的総生産物のうち、右のうめあわせ(補填)分を差し引いたのこりは、じつはこの期間に労働者が自己の労働によってあらたにつくりだした価値に相当する部分である。この分を国民所得という。
 社会的総生産物の価値をC+V+M であらわせば、国民所得はV+M ということになる。
 物的生産に従事する労働者は社会的総生産物、国民所得をつくりだすが、小商品生産者(農民や手工業者などのように自分の労働で商品を生産するもの)の生産労働もまた社会的総生産物、国民所得の一部を生みだす。それ以外の階級や階層は国民所得をつくるのではなく、それをうけとるだけである。


 生産的労働者によって生みだされた国民所得は、社会の各階級のあいだでどのように分配されるか。この分配は資本家と地主などの搾取階級に有利に、労働者や勤労者階級に不利におこなわれる。労働生産物である商品は資本主義のもとでは、生産手段の所有者である産業資本家のものになり、資本家はそれを売って貨幣のかたちでC+V+M の大きさにひとしい価値を手に入れ、そのなかから賃金が支払われる(賃金は労働力の価値あるいは価値以下に決められる)。剰余価値は、産業資本家の利潤、商業資本家の利潤、貨幣資本家の利子、地主の地代というように分けられる。
 国民所得はまず右のようなかたちで分けられるが、それでおわるわけではない。資本家は、配当や利子のかたちで手に入れた不労所得を、ぜいたくな生活資料やサービスに支出する。
 労働者の賃金は、市場の八百屋や酒屋、理髪屋、パチンコ屋、医者などの所得にかわってゆく。
 こういうように、最初に分配された国民所得は、その後非生産部門の労働者や諸階層の所得にかわってゆく。これを国所得の再分配という。
 第一次分配の段階では、商品が価値どおりに売られ、賃金が価値どおりに支払われるように仮定したが、独占資本主義の現在ではそういうようにはなっていない。中小零細企業は独占企業から原材料や機械を価値以上の価格で買わされ、製品を大資本に価値以下に買いたたかれる。労働者は労働力の価値以下の低賃金で働かされ、独占の高い商品を買わされる。こういうわけで、すでに国民所得の第一次分配の段階でも、独占的大資本に有利な分配がおこなわれる。信用の面でも、独占的大銀行が中小資本から高い利子をとりたてる。


 国家財政は、多数の勤労者大衆の所得からはきびしく、資本の所得からはゆるく、吸い上げた税金をたっぷり大資本にそそぎこむ。資本の利益において国民所得を再分配するところに財政の役割がある。


 もしこれらの仕事が民間企業のかたちでおこなわれるばあいは、それがサービスであろうと、教育であろうと、医療であろうと、やはり剰余価値の取得が目的となっており、労働者はその労働の一部を搾取されている。
 さまざまな労働者部類はそれに対応した特殊性をもっている。が、それ以上に重要なことは、かれらがいずれも社会的再生産の一分肢を構成し、かつ労働力の販売によって生活の糧をえているという共通点をもっていることである。

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参照→【転記】+猫にでも分かる経済学 富の再分配 富とは何か+


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第14章 恐慌と景気循環

 恐慌という現象は、まったく資本主義特有のものである。ほかの社会でも、人びとがじゅうぶんな生活物資を手にいれることができなくて、飢えに苦しむことがたびたびあった。
資本主義の恐慌がこれらと根本的にちがう点は、人びとが生活に苦しむ原因が、物資の生産不足ではなくて、ぎゃくに物資の過剰生産にあるということである。

 外国にこういう物語がある。失業した石炭労働者の家庭では、寒いのに、石炭が買えないのでストーブをたくことができない。
 子ども「どうして石炭がないの?」
 母「父ちゃんがクビになったから買えないのだよ」
 子ども「どうしてクビになったの?」
 母「石炭があり余ってるからだよ」
 子ども「………?」

 過剰生産は、腹がいっぱいでこれ以上なにも食えないという意味での、絶対的な過剰生産ではない。人びとはいくらでもほしいのだが、カネがないために買えない。だからこれは物資の供給とくらべて需要がとぼしいからおこった過剰生産、その意味で「相対的過剰生産」なのである。


 資本主義では、生産はきわめて大規模なものとなった。
また資本主義では、社会的分業がすすみ、
各分野がたがいにみっせつにむすびつき、とけあい、こうして一個の社会的生産過程を形成している。これを生産の社会化という。いまではどんなものでも多数の人びとの協業と社会的分業とによる総合的な生産物となった。
――ところが資本主義では、生産は社会化されているにもかかわらず、資本家階級が生産手段を私有しているところから、生産物は依然として資本家の私的所有物となっている。――これは矛盾している。この生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態との矛盾、これこそが《資本主義の基本的矛盾》とよばれるものである。
 資本主義の基本的矛盾は、第一に、階級的対立すなわち「プロレタリアートブルジョワジーとの対立」としてあらわれ、第二には、「個々の企業内での生産の組織性と社会内での生産の無政府性との対立」としてあらわれる。


 資本と労働との階級対立は、資本主義経済の運動のなかで「生産と消費の矛盾」といういっそう展開されたかたちであらわれる。
 資本主義企業はたがいに競争して生産を拡張してゆくが、生産しただけではなんにもならない。これを市場で売らなければならない。商品には消費財と生産手段とがあるが、生産手段は消費財をつくるためのものであって、けっきょくまわりまわって消費財になる。そして消費物資の主要な部分を購入するのは勤労大衆である。だから大衆の消費力が、けっきょくは商品の市場全体をささえていることになる。ところがその大衆の消費力というものを、資本主義は最低限におさえつけているのである。というのは、資本家はできるだけたくさんの「剰余価値」をかくとくするために、なるべく労働者を安い賃金で働かせようとするからである。そのうえ、資本家は新技術を採用して失業者をつくりだす。
 こうして一方では生産を無制限に拡張しようとするのに、他方、大衆の消費のほうは、賃金というせまいワクにとじこめられたままである。これが生産の消費と矛盾である。恐慌のときには、買い手のないたくさんの商品が市場にあふれるが、これは全体としての生産が消費の水準を上まわってしまったことを示している。つまり恐慌は生産と消費の矛盾が爆発したものである。
 恐慌は、
たんなる経済バランスのとりそこないや、「生産部門間の不比例」だけによるものではない。それならば社会主義でも恐慌がおこるはずであるが、社会主義に恐慌はない。恐慌は「生産と消費の矛盾」という資本主義の本質的な矛盾から生まれたものなのである。
 ところで、この生産と消費の矛盾ということを手っとり早く解釈して、労働者の賃金が低いから恐慌がおこるのだ、賃金を高めさえすれば恐慌はなくなるだろう、というように安直に考えてはならない。そういう考え方を過小消費説という。
実際には、どんなに賃金をたかめても(といっても資本主義が賃金を労働力の価値以上にたかめることはないが)、資本主義のもとでは恐慌はなくならない。


 社会が秩序正しく再生産をつづけてゆくためには、社会的分業がうまいぐあいに編成され、社会の労働量全体が、さまざまの物資の生産面へ、社会の欲望と比例したわりあいで配分されていなければならない。
 ところがこれらの古い時代の小規模な、個々バラバラな生産とはちがって、資本主義や社会主義のように生産が社会化され、各部門がたがいにきんみつに融合しあっている経済のばあいには、社会的再生産のふくざつな関係が形成されるから、労働の比例的配分を達成することは容易なワザではない。
 資本主義のもとでは、生産手段が資本家階級によって私有されているために、計画経済を実現することが不可能なのである。たしかに資本主義も、工場のなかでは、ムダをはぶき、生産の合理化、計画化、組織化を徹底的におしすすめた。だがこれは、個々の企業、個々の工場のなかだけでの話であって、一歩企業の外へでてみると、資本主義は、社会の内部での生産の無政府性をとりのぞかないばかりか、以前の小商品生産のときよりもいっそう無政府状態をはげしくしているのである。
その結果、社会的再生産のつりあいをぶちこわしてしまう。そのアウト・ラインはつぎのとおりである。

 資本家の資本蓄積競争、生産拡大競争がすすむにつれて、第二部門(消費資料生産部門)の生産増大よりも第一部門(生産手段)の生産増大のほうが不均等に急速にすすむ。
第一部門の不均等ぼうちょうは、じつは社会全体で固定資本の投資がたかまったきていることをあらわしている。
 固定資本(機械設備・工場建物など)は、金額的に巨額にのぼるので、さいしょ投下するときは、一時に大きな需要をよびおこす。設置されてしまうとその耐用年数がつきるまで、もう需要はつくりださず、ぎゃくに生産物をつくり、供給をふやしつづける。
 固定資本はこうして社会の需要と供給の流れをかきみだす。だから社会全体で需要と供給のバランスを保つためには、投資を個々の企業の勝手にまかせてベラボウに多くなったり、うんと少なくなったりすることのないよう、社会全体の立場から投資を計画化しなければならない。
 ところが資本主義ではそうはゆかない。もうかりそうだというときは、われもわれもとみながいっせいに固定資本を拡張しようとする。あとでその反動がくるのではないかと気づいたふんべつのある資本家があったとしても。もしかれだけが投資をしなかったならば、シェア(市場占有率)拡大の闘争に破れて、没落してしまう。
利潤獲得闘争のためにさまざまの部門や企業の固定資本投資が一時に集中しておこなわれることになる。その結果、設備投資のたかまりを機動力としてつよい需要がわきおこり、雇用も増大し、物がとぶように売れ、経済全体が異常な熱気をおびる。
 けれども、じつはこの好景気はみせかけにすぎない。企業は設備拡張をやりぬくなかで、貨幣資本のたくわえを総動員し、吐きださねばならない。
やがて固定資本投資はスローダウンせざるをえない。これにともなって需要もおとろえる。ところがちょうどこのとき、先行の繁栄局面で投下されていた大量の新式生産設備が稼働しはじめる。ぞくぞくと生産物が市場に放出され、ときとともにますます大量になってゆく。その結果、生産物の常用と供給のバランスが逆転し、供給が需要を上まわるようになる。商品の売れ行きはしだいにわるくなり、滞貨がふえてゆく、こうして過剰生産が発生するのである。
 このありさまをみて危険を感じた銀行は警戒体制をとり新規の貸出しや手形の割引を制限する。そこで、産業資本家や商業資本家のあいだに「金づまり」がおこる。
 過剰生産が最初どの部門に発生したものであろうと、倒産や操業短縮によるクビ切りは、労働者の消費力を絶対的に減退させる。その結果、過剰生産は全生産部門に波及する。だれの目にも明らかに「生産と消費の矛盾」が爆発したわけである。


 8年ないし11年、平均してざっと10年の周期をもって、規則正しく、恐慌がおこってきた。このことは、資本主義にとって恐慌は不可避的な(さけられない)ものであるということを、はっきり示している。

 恐慌は、働く人びとに厄災をあたえる、いまわしいものである。ところが、その恐慌も大資本いとっては、まんざら、わるいばかりのものではない。
 第一に、恐慌時には株が暴落している。だから大資本にとっては、この値下がりした株を安く買い占めたり、つぶれそうになった企業を二束三文で丸ごと買いとってしまう絶好のチャンスなのである。事実、恐慌のたびごとに、大資本は、中小資本を併呑し、資本の集中・独占をつよめてきた。
 第二に、大資本家は、合理化を強行し、労働者のたたかいの成果をうばいもどすために恐慌、不況を利用する。
 《不況もまた、考えようによっては、わるくない。不況になると、ふだんやれなかった経営の合理化に思いきった手をうてる。労働組合だって、低姿勢になる。上げすぎた賃金をひきもどすチャンスだ。》
 さらに恐慌のときには、政府は軍需注文によって大企業に仕事と利潤をあたえるために軍事費を大増強しようとする。また、人民の生活防衛の闘争が激化するから、これを弾圧するための治安体制の強化、政治的反動化が強まる。さいごには、他国の領土・資源・市場をうばいとる方向で恐慌を克服しようとして軍備増強と侵略戦争への危険が高まる。

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参照→【転記】アベノミクスで本当に景気がよくなったら 腹切ってやるYO!

<a href="http://secret.ameba.jp/frederic-chopin/amemberentry-12004812082.html">『経済学入門 / 林直道』を読了①</a>

第Ⅰ篇 資本主義経済のしくみ

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 資本主義の経済は、過去の前近代的社会の経済とは異なって、人身的隷属や強制労働によってではなく、独立した人格の自由な契約と平等な交換取引とから成り立っている。それにもかかわらず右のような極端な経済的不平等が生じるのは、まことにふしぎなことといわなければならない。

 第二に、資本主義経済こふしぎな現象として、周期的に襲来する経済恐慌と不況がある。

天災やなにかで物が生産し足りないから欠乏がおこるのではなく、物をたくさんつくりすぎたがために人々が物に欠乏するというのは、どう考えてもふしぎであり、逆説的な現象というほかはない。

 以上、富の偏在と所得のおどろくべき格差、数年おきにやってくる経済不況の嵐、インフレーションの慢性化、戦争や軍事化の経済的内幕、等々、思いつくままに資本主義の不合理、ふしぎな現象をあげてみた。

 われわれは資本主義の達成した偉大な歴史的進歩(生産力の発展と、人間の人身的隷属の廃止=形式的に平等な人権の確立)をみとめたうえで、それのもつ歴史的限界を経済学的に明らかにしなければならない。

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第1章 商品と価値

 資本主義経済は、歴史的にいって過去の社会にふくまれていた商品経済が発展してできたものであるうえに、でき上がった資本主義経済もまた商品を構成要素(原基形態)として成り立っており、こうして資本主義経済にとっては、歴史的にも論理的にも、商品というものが出発点となっているからである。

 さて、その商品とはなんだろうか。商品とは、使用価値および価値という二つの内容をもったものである。

 人間のいろいろな欲望を満たすという物の性質、あるいはそういう性質をもった物のことを、使用価値という。使用価値のなくなったものは商品にはならない。

 商品とは、市場で、ほかの商品と交換される物である。このばあい、ほかの商品と一定の割合で交換されるその交換比率を交換価値という。

 商品生産が発達すると、交換価値は貨幣であらわされ、価格というかたちをとる。

商品が価格をもっているのは、その商品にそれだけのねうちがあるからで、価格とはこの商品のねうちをあらわしたものである。このねうちが価値である。

 価格は価値をあらわしたものであるが、量的にいつでもぴたりと価値の大きさそのままをあらわしているとはかぎらない。価値を中心にしながらも、需要と供給、すなわち買い手と売り手の力関係が変化するのにおうじて、市場での価格の大きさが変動するからである。需要のほうが多ければ。市場価格は価値よりも高く決まり、供給のほうが多ければ、市場価格は価値よりも下がる。

 この商品のねうち=価値の中身は何であろうか。これが経済学の出発点において、いちばん大切な問題である。常識の世界では、ある商品のねだんがほかよものよりも高いとすれば、それはその商品がうまいから、美しいから、丈夫だなら、等々、つまり使用価値が大きいからだろう、くらいに考えている。ところが本当はこの常識的な考えはまちがいなのである。

 たしかに、人は、ある物の使用価値が他の物よりも大きく、したがってわれわれの欲望を、満たす度合い(効用)が大きくなければ、高いねだんを払いはしない。その意味で使用価値は商品が価値をもつための前提となっている。けれども商品の価値じしんは、使用価値とは全然べつものなのである。そのことは、つぎの二、三の例を考えてみれば、わかる。

 もしマッチがなかったら、火をつけるとき、ずいぶん苦労する。

マッチの使用価値は大きいのに、価値のほうはべらぼうに小さい。

 つぎの例。技術がすすみ、生産力が発達すると、商品のねだんが安くなる。

テレビ一台の価値は小さくなった。ところが、使用価値のほうは品質改良、性能向上でかえって大きくなった。価値と商品価値とは、逆にうごいている。

 もう一つの例。価格というのは、数字だから、どんな商品でも、種類のいかんをとわず、たがいに価格を比較し、価値の大きさをくらべることができる。100グラムあたり、サンマ100円、タイ500円といえば、タイの価値はサンマの五倍とキッチリ計算できる。ところが、使用価値およびそれにもとづく効用のほうはそうはゆかない。いったい、タイはサンマよりも五倍うまいなんてことがいえるだろうか。

まして品種のかけはなれた商品になると、てんで比較できない。

人によって、また同じ人でも時と場合によって、必要とする使用価値がちがってくるだろう。だから、もし使用価値や効用の大きさで、さまじまの商品をねぶみするとなると、とても社会全体の一致した客観的な秤量など、できるはずがない。

 ところが、そんな各人の主観的なねぶみはおかまいなしに、市場では商品は一定の客観的な価値をもっている。このことは、価値が、使用価値や効用とちがったべつの原理で決まるものだということを示しているわけである。

 経済学は、人間の労働こそが価値の中身だということを発見した。人間の労働の凝りかたまったもの、労働の結晶体、それが商品の価値なのである。

 価値の実体が労働であることはつぎのようにして証明される。――二つの商品がひとしい物として交換されるのは、この二つの商品が、どちらも、なにか共通の物をひとしい分量だけふくんでいるからである。ではこの共通物とはなんであろうか?それは使用価値ではない。なぜなら使用価値という点では二つの商品はまったくちがった物だからである(ちがった物でなけれはわそもそも交換が生じない)。そこで二つの物から使用価値をとりのぞいてみよう。すると、両方の物に共通性として残るのは、どちらも労働の生産物だということ、人間の労働の結晶であるということだけである。商品に対象化されている人間の労働、これこそが価値の実体なのである。

 価値の中身が労働であるということをうらづけるのは次の事実である。それは《商品として売られているものは、みな、それをつくるのに、なんらかのかたちで労働がかかわっているのに、これに反して、労働を要していないもの、労働の生産物でないものはどんなに使用価値が多くても、価値をもっていない。だから商品となっていない》ということである。

 一例として空気を考えてみよう。

空気は人間にとってなによりも大切な使用価値である。それなのに人間は、空気を吸うのに代金を払う必要はない。なぜか。空気は天然自然にあるもので、労働の生産物ではなく、したがって価値をもたぬからである。ところが同じ物でも労働の生産物となると、価値をもち、商品として売られる。酸素ボンベの酸素は、工場で、人間の労働によってつくられたものだから、価値をもっており、カネを払わないと手に入らない。魚でも、養魚場の魚はいけすをつくり、エサをあたえるなど、労働が加えられているから、価値をもっている。だから、他人がこれをもらってゆくと、ドロボウになる。けれども、海に泳いでいる天然の魚は価値をもっていない。労働の生産物ではないからである。この魚が、マーケットにあらわれると、値札をつけ、価値をもつようになっている。それは、漁獲する労働、とった魚を運搬する労働などが、魚にこびりつき結晶しているからである。

 人間は、土地すなわち天然資源を素材として、これに労働をくわえ、人間の必要とするさまざまの使用価値をつくりだし、われわれの生活をゆたかにしてゆくが、この労働によって同時に価値をもつくりだしている。

 この同じ労働のうちの、使用価値をつくりだすように働く面を具体的有用労働(または具体的労働)といい、価値をつくりだすように働く面を抽象的人間労働(または抽象的労働)とよぶ。それは二つのべつべつの労働ではなくて、同じ一つの労働の二つの面である。

抽象的労働というと、なにか観念のなかだけにしか存在しないもののように思われるかもしれないが、そうではなくて、あくまでも現実の労働そのものの一つの側面を意味している。すなわち、すべての労働に共通に含まれているところのもの、かんたんにいえば労働一般、これが抽象的労働なのである。

 商品の価値の実体が対象化された労働であるとすると、価値の大きさは、この労働の分量で決まることになる。そして労働の分量とは、労働の時間的継続すなわち労働時間であらわされる。

 タイがサンマよりも五倍も高いのは、

同じ量の労働をしても、平均してタイはサンマの五分の一しか捕れず、ひたがって同じ量のタイはサンマの五倍の労働をふくんでいるからである。

――テレビが現在の価格に直してに210万円から16万円にも下がったのは、技術の進歩と大量生産方式で、一台あたりつくるのに必要な労働の量が約十三分の一ですむようになったからである。このように、同じ物でもそれをつくるのに必要な労働が節約されると、価値は小さくなる。――金やダイヤモンドは高い。しかし、もしも、わずかの労働で掘り出す技術が発明されたり、または成分・光沢などまったく同じ性質をもったものが少量の労働で人工的に製造できるようになれば、金やダイヤモンドの価値は小さくなり、ねだんはぐんと下がってしまうことは確実である。

 商品の価値の大きさも個々の生産者のついやした個別的な労働時間で決まるのでなく、その商品を生産するのに社会的に必要な労働時間によって決定される社会的必要労働時間とは、生産条件(設備など)、労働熟練度、および労働強度(労働密度)の社会的平均度をもって、ある商品を生産するのに必要な労働時間のことである。

 簡単労働は、普通の人間ならばだれにでもできる単純な仕事のことである。これにたいして複雑労働は、特別に訓練を受けて習得しなければできない高等な労働のことである。複雑労働は同じ時間内に単純労働よりも多くの価値をつくりだし、簡単労働の何倍分としての意義をもつ。

 商品の価値の実体は労働であるとする理論を《労働価値説》という。

 商品生産のもとで作用する経済法則を価値法則とよぶ。価値法則とは、商品の生産に社会的に必要とされる労働時間によって商品価値が決定され、商品の交換はこの価値を基準としておこなわれるという法則である。

 商品生産の世界は、個々の商品生産者が、生産手段の私有にもとづいて、てんでバラバラに生産をおこない、生産物を市場にもちだす。そういう無政府的な、無計画な活動の総和として形成される。こういう状態のもとでも、社会的生産がおこなわれている以上は、それを統一する法則的な力がはたらかないわけにはゆかない。価値法則がそれにあたるのであって、商品生産の世界をおそう恐慌は、この価値法則が強力的に自己を貫徹してあらわれたものである。

 さらに、価値法則は、商品生産者(=小商品生産者、すなわちまだ資本主義になっていない単純な商品生産者)を分解させる法則である。――商品生産はきびしい競争の世界である。

社会の平均水準よりもすぐれた設備をもっている者は、この社会的必要労働時間よりも少ない時間で商品をつくることができる。かれはこの商品の価値よりもずっと少ない労働量しか要しないから、その差額だけとくをする。

これと反対に、社会的平均以下の設備しかない者は、商品価値よりもたくさんの労働を必要とするから、そのひらきだけそんをする。

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参照→【転記】+科学の方法+ 抽象化

労働の抽象化

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第2章 貨幣

 商品の価値というものは、いわば一種の社会的な関係である。だから、それは商品のからだをいくらひねくりまわしても、あるいは顕微鏡でのぞいてみても、見えるシロモノではなかった。ところが、このように商品のなかに内在化し、かくれている価値が、商品の交換関係の発展とともに、しだいにその姿を外にあらわしてくる。

 一定量の米と毛糸をつきあわせることによって、米の価値が毛糸という使用価値の姿をかりてあらわされるのである。

 毛糸も靴もナイフも金も、すべての商品の価値が、米という同じ一つの使用価値の姿をかりてあらわされ、それらすべてのものの価値の大きさが、米の分量という共通のものさしで測られている。このように、全商品の価値を映しだす役を演じる商品(いまの例では米)のことを一般的等価物という。

 生産力が発達して、金や銀が生産されると、一般的等価物の役割は、金・銀にうつってしまった。このように、一般的等価物の役割が金・銀という特別の商品に固定したものが貨幣である。金・銀は、独特のあやしい美しさをもち、人の心をひきつけずにはおかない商品(労働生産物)であるばかりでなく、家畜のようにエサを食べさせる必要はないし、ほおっておいても腐らない。どこを切っても等質で、いくらでも分割できる。それに金・銀はほりだしから精錬までばく大な労働がかかるから、少ない分量の金・銀でも多くの価値をふくんでいる。

 いまや、どんな商品でも「その価値は金でいえば何グラムにあたる」というようにして、価値の大きさを共通のものさしではかることができる。

こうして価格というものが生まれる。

 金・銀が貨幣の役を独占できたのは、金・銀が金属として優秀な性質をもつからであるが、より根底的には、それが労働生産物だからである。ちょうどそれ自体重さをもつ物だけが重さを度量する分銅として役立つように、それ自体労働生産物であるものだけが貨幣として労働生産物の価値をはかることができる。

貨幣の正体は「価値」そのものである。

 紙幣はどれだけ発行されようと、その額面とかかわりなしに、流通に必要な貨幣量しか代表できない。だから、政府が財政支出をまかなおうとしてジャンジャン紙幣を刷り、かりに流通必要貨幣量の二倍の額だけ発行したとしよう。このばあいには、紙幣は額面の半分に減価してしまう。ぎゃくにいうと物価は二倍になる。このような流通必要量を上回った通貨の増発による紙幣の減価(物価の騰貴)がインフレーションである。

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参照→【転記】インフレ政策&アベノミクス

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第3章 労働力の価値と使用価値

 現代資本主義社会における大資本家の大きなもうけはどこから出てくるのだろうか?

 ふつうの常識でいえば、資本のもうけは、商品を価値どおりの価格で仕入れてそれを価値以上の高い価格で売るか、あるいは商品を価値以下の安い価格でしいれてそれを価値どおりに売るか、あるいはその両方の手をつかうことによって、得られるものだと思えるであろう。ところが、じつは、これでは本当の説明にはなっていない。というのは、ある資本家が安く仕入れて、あるいは高く売って、もうけたときには、取引相手の資本家が安く売って、あるいは高く買わされてそんをしているはずで、社会全体、資本家全体では差引ゼロ、何ももうけはなかったことになるからである。

理論としては、まず商品は等価で交換されると前提したうえで、しかももうけが生まれるというしくみを明らかにすることが必要なのである。

 資本主義社会をかたちづくる基本的な階級は資本家と労働者とである。

資本主義経済の特徴をひとことでいうと、資本家が生産手段を所有していて、労働者をやとって働かせるような経済のしくみ、といえる。労働者は生産手段をもっていない、つまりプロレタリア(無産者)であるから、生活資料を買うのに必要な貨幣を手に入れるためには、大量の生産手段の所有者である資本家にやとわれるほかに道がない。

 労働者が資本家にやとわれるとき、じつは、かれは自分の労働力を資本家に売っているのである。

かんたんにいえば、労働力とは「労働能力」のことである。労働者は、ほかに売るものがないので、この労働力を売って、貨幣をえている。資本家のほうからいえば、労働者から労働力という商品を買いとっていることになる。労働者が資本家にわたす「履歴書」は、この労働力という商品の内容紹介、効能書にあたる。このように、資本主義社会では、労働力が商品として売買されているのである。

労働者は労働力を売るといったが、もちろんこれは奴隷の売買とは性質がちがう。奴隷のばあいは、奴隷自身が、丸ごと売られてしまう。そのため、奴隷の人格なんてものは認められず、物として、役畜なみに扱われた。しかし、労働者はそうではない。労働者は自分自身を、丸ごと売ってしまうのではない(それなら人身売買)。労働者自身が売り主になって、自分の持ち物である労働力を(それも時間決めで)売るだけである。これは純然とした、商品取引であって、売り手(労働者)と買い手(資本家)とは、法律的にも、人格上でも、まったく対等である。

労働者は資本家のために労働力を支出し労働するかわりに、資本家から賃金をうけとる。では賃金とはなんだろうか?賃金とは労働力という商品の価格なのである。

常識では賃金とは労働にたいする報しゅう、"労働"の価格だとおもわれている。しかし、げんみつにいうと、これはまちがいである。賃金とは労働力の価格なのである。

 では賃金、労働力の価格は、なにによって決まるか?

 ここで、まえに商品の価値と価格について述べたことを復習しよう。

――ある商品がどれだけの大きさの価値をもっているかは、その商品をつくるのにどれだけの分量の労働が社会的に必要であるかによって決まる。そして、この価値を中心としながら、そこへ需要と供給との状態、あるいは売り手と買い手との力関係が働いて、商品の具体的な市場価格が決まる。

 労働力商品についてもこれと同じである。「労働力の価値」を中心として、これに売り手(労働者)と買い手(資本家)との力関係が加わって、労働力の価格が決まる。

むずかしいのは、労働力の価値である。

 ――《商品の価値の大きさは、その商品を生産するのに社会的に必要な労働の分量で決まる》。

 これを労働力の価値にあてはめてみよう。――《(労働力の)価値の大きさは、(労働力を)生産するのに社会的に必要な労働の分量で決まる》となる。

 この「労働力を生産する」とはいったいどういうことか?

労働力の「生産」は、じつは労働者が生活しているなかでひとりでにおこなわれているのである。

 「労働力を生産する」ということには二つの意味がある。第一は、労働者本人が、毎日の疲れをなおし、生命エネルギーを回復し、日々新たに労働能力をつくりだすことである。こうするためには労働者は衣・食・住の糧(生活資料)を手に入れなければならない。

 第二の意味は、労働者が家庭で次の世代を生み、子どもから一人前の労働力を備えた人間に育ててゆくことである。そのためには労働者の家庭ぜんぶが生活資料を手に入れて消費できなければならない。

 ――「労働者本人およびその家族が生きてゆくために必要な生活資料、を生産するのに社会的に必要な労働の分量」

もっと短く、ズバリ言うと――《労働者本人とその家族とが生きてゆくのに必要な生活資料、の価値》。

これが労働力の価値の大きさを決めるものなのである。

 労働力の価値のなかから文化的要素のすべてを除去し、その線をこえると人体の再生産さえおぼつかなくなるというギリギリの最低線まで切り下げられたものを労働力の価値の最低限界とよぶ。

 労働力の価値の大きさは、時代によってまた国によって、変化する。

 また労働力の価値を決定する重要な要因は、労働者階級の社会的地位の高さ低さである。労働者階級の社会的地位によって、「労働者とは、ふつうどの程度の生活をするものであるか」という社会的な通念ができ上がり、それによって労働力の価値の水準が決められるからである。

 労働者から労働力という商品を買った資本家は、労働者を生産過程で働かせる。つまり、買った労働力を消費するのである。そうすると、労働という生産的エネルギーが出てくる。労働こそ、労働力商品の使用価値なのである。

 労働こそは、価値の実体であり、価値をつくりだす源であった。だから資本家が、買い入れた労働力を消費する(労働者を働かせる)と、新たな価値がつくりだされ、この新しい価値は、労働力商品の買い手である資本家のものとなる。

 労働力はそれ自身が価値をもった商品である。その労働力を消費すると、また価値が出てくる。

 いま、労働力商品にかんして二通りの価値が問題になっている。この二つの価値の関係がわかればよい。

 一つは、労働力それじしんがもっている価値、すなわち労働力の価値(=労働者とその家族が生きてゆくのに必要な生活資料の価値)。この価値を、資本家は賃金というかたちで労働者に支払う。

 もう一つは、生産過程において労働力が新たにつくりだすところの価値。この価値を、資本家は労働者から受けとって自分のものとする。

 この二つの価値はまったくべつべつの原理で決まる。

 「労働力の価値」のほうは、労働者の生活資料の価値、つまり標準的な必要生活費で決まる。

 「労働力が新たにつくりだす価値」のほうは、生産過程における労働時間の長さによって、決まる。

 だから、その二つの価値の大きさのあいだには、たがいになんの関係もない。そして「自分のもっている価値よりも大きい価値をつくりだすことができる」という点に、労働力のもつ特殊な使用価値がある。

 大昔、生産力の低かった時代には、人類は、必要な生活資料を生産するためにずいぶん長時間の労働をしなければならなかった。ところが、生産力が進歩発達するのにつれて、ますますわずかの労働時間で生活資料を生産できるようになった。こんにちの資本主義は非常に生産力が高いから、労働者の家庭で消費されている一日分の生活資料を生産するには、ほんの数時間の労働でこと足りる。いいかえると、労働者は、ほんの数時間働くだけで、自分の労働力の価値(生活資料の価値)に相当するだけの価値を、りっぱに生産してしまっているのである。経済統計学者の計算によると、現在の日本では、労働者の賃金に相当するだけの価値は、だいたい一日2―3時間の労働でらつくりだせているといわれている。

 資本家としては基準労働時間をできるだけ長くしたい。労働者としてはできるだけ短くしたい。だから労働時間がいくらになるかということは、まったく労資の力関係によって決まるものである。

世界の労働者階級は労働時間短縮のたたかいを、うまずたゆまずくりかえしてきた。

ようやく1919年、ILO(国際労働機関)において八時間労働制条約が採択されたのである。

 しかしこの八時間労働でも、労働者のつくりだす価値は、労働力じしんの価値をはるかに上回っている。前の例で言うと、労働者ははじめの3時間ですでに労働力の価値をうめあわせる価値をだし、あとの5時間には、資本家のもうけとなる余分の価値をつくりだしていることになる。この資本家のもうけとなる余分の価値のことを剰余価値という。

 常識の世界では、搾取が生じるのは、労働者にたいして労働力の価値以下の賃金しか支払われないからだと考えられている。たしかに労働力の価値以下の賃金しか払われなければ、それだけ搾取が大きくなることは当然である。けれども、かりに労働力の価値どおりの賃金が支払われたとしても、なお資本による労働の搾取はおこなわれている。――これが資本主義のしくみだったのである。

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第4章 資本と剰余価値

① 資本主義社会では、労働力(すなわち人間の労働能力)が、商品として売買される。労働力商品も、ほかの商品と同じように、使用価値と価値とをもっている。

② まず労働力の価値とは、労働者とその家族が生活してゆくのに必要な生活資料の価値のことである。この労働力の価値がもとになって賃金が決まるのであって、賃金とは労働力商品の価格のことである。

③ これにたいして、労働力の使用価値とは、労働ということである。ところが労働は価値をつくりだす。労働は価値のみなもとである。だから労働力の消費過程(労働過程)からは、新しい価値がつくりだされる。この価値は、労働力商品の買い手である資本家のものになる。

④ 資本家が手に入れるこの新しい価値の大きさは労働日(一日の労働時間)の長さによって決まるのであって、資本家が支払う労働力そのものの価値(生活資料の価値)の大きさとは関係がない。資本主義社会で決められている一日七時間とか八時間とかいうようなふつうの労働日のもとでは、労働力の価値をはるかに上回るずっと多くの新しい価値がつくりだされている。この差額が剰余価値である。

 剰余価値とは、資本家が労働者から無償で吸いとった価値のことである。

 生産物(商品)の価値の実体は商品に対象化さらた労働であり、この労働の分量によって生産物の価値の大きさが決まる。ところが、この「労働」は、じつはつぎの二つの部分からなっている。

 第一の部分は、その生産物をつくる過程で直接に支出されるなまの労働、たとえば糸についていえば、紡績の段階での労働である。

 生産物をつくるときには、原料や燃料や機械設備など(いまの例でいえば綿花や紡機など)の生産手段が消費されている。これらの生産手段も労働の生産物であるかぎり、それらには労働がふくまれていたはずである。この労働は、とっくの昔に(すなわち糸の生産のまえに、綿花栽培や紡機製造の段階で)すでに価値としてかたまってしまっていたものだから、いわば「過去の労働」である。これが第二の部分である。

消費された生産手段の価値(過去の労働)が新しい生産物のなかへそっくり移しこまれる。そして、生産物の価値の一部として再現することを、価値の移転という。このばあい生産手段の価値の大きさは、ふえもへりもしない。生産手段の価値はそのまま、そっくり移転され、これが生産物の価値の一部分を構成するものとなる。

 これにたいして、なまの労働によって、新しい価値がつくりだされることを、価値の創造という。

 

 生産過程では、(1) 生産手段にふくまれていた古い価値が生産手段のしょうひにつれて生産物のなかへそっくり移しこまれ(価値の移転)、同時に、(2) 新しい価値がつくりだされて生産物につけくわえられる(価値の創造)。

 生産物の価値は、(1) 消費された生産手段の価値(移転された価値)プラス、(2) 新たにつけくわえられた価値(創造された価値)、この二つの合計から成るわけである。

資本家が労働者にたいしてこの労働力の価値を支払っている以上、資本家と労働者とのあいだの関係は、価値法則にもとづいた関係であり、形式上は等価交換だというほかない。このような形式上の等価交換をつうじて、実質上の不等価交換がおこなわれている。ここに資本主義社会での搾取の特徴があったのである。資本主義社会ではすべての人間が形式上は平等であるのに、実質的にはひどい不平等におちいっているのも、ここに根本の原因がある。

 労働者がつくりだした新しい価値は、二つの部分から成っている。第一は、労働力の価値にひとしい価値部分、第二は、剰余価値である。

 そこで、これに対応して、労働者の労働は、二つの部分に分かれる。第一は、労働力の価値にひとしいだけの新しい価値をつくりだす部分、第二は、余剰価値をつくりだす部分である。第一の部分を、必要労働といい、第二の部分を剰余労働という。

 必要労働は、「支払われた労働」といい、剰余労働は「支払われない労働」、「不払労働」とよばれる。

 一般に階級社会では、生産手段の全部あるいは主な部分を独占している階級は、勤労人民から剰余労働を搾取してきた。奴隷所有者は奴隷から、封建領主は農奴から。それとおなじように、資本家は労働者から余剰労働を吸収しているのである。このばあい、奴隷や農奴が搾取されていることは、議論の余地なく、だれの目にもすぐにわかるが、労働者のばあいは、剰余価値という、目にみえないかたちで搾取がおこなわれているために、一見すると、なにも搾取などは存在しないかのように見える。これは、賃金が、労働力の価格の支払であるにもかかわらず、労働者の提供した労働全体(必要労働と剰余労働をひっくるめた全体)にたいする支払であるかのようにして計算され、支払われているからである。

 「賦役労働〔農奴の労働〕では、賦役民〔農奴〕の自分自身のための労働と領主のためにする彼の強制労働とが空間的に・また時間的に、はっきり感性的に区別されている。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が自分自身の生活手段の価値をうめあわすだけの部分、つまり彼が事実上自分自身のために労働する部分さえも、主人のためのろうとしてあらわれる。ところが賃労働では、余剰労働または不払い労働さえも、支払われるものとしてあらわれる」

 資本とは何か? かんたんにいえば、資本とは、労働者から剰余価値を吸いとることによって自己増殖してゆく価値のことである。資本はつぎの二つの部分から成る。

第一は、生産手段(原料・燃料や機械設備など)の購入にあてられる資本部分。これは生産過程のなかで価値が維持され、価値の大きさが変わらないで〔不変のままで〕生産物のなかへ移しこまれるので、不変資本という。 

第二は、労働力の購入にあてられる部分。ーーこれは生産過程のなかで剰余価値を生むことによって、価値の大きさが変わり、より大きな価値となって生産物のなかに再現されるので、可変資本という。

 不変資本はC、可変資本はVであらわす。

 剰余価値の記号はMである。

 そうすると、生産物の価値は、C+V+M ということになる(ただしこのばあいのCは、生産で用いられた生産手段全部ではなくて、そのうちの消費された部分、すなわち機関設備などの償却費プラス原材料費だけであるが)。

可変資本と比べた剰余価値の割合を、剰余価値という。

 剰余価値率=V/M

 これは、労働者にたいする資本家の搾取の度合いをあらわす。こんにちの日本の工業の剰余価値率は、だいたい250パーセントないし300パーセントくらいと計算されている。

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第5章 剰余価値生産の方法

 労働日の長さそのものを延長して剰余価値をふやす方法を絶対的剰余価値の生産という。

 資本主義の歴史をふりかえると、生産方法は、(1)単純な協業、(2)マニュファクチュア、(3)機械制大工業――という三つの段階をへて発展してきている。

 この三つの段階は、技術発展、生産方法の発展の三段階であるとともに、また相対的剰余価値の生産の三つの段階でもあった。それは、生産力を高め、労働力の価値を引き下げ、必要労働時間をみじかくするというやり方でぎゃくに剰余価値のほうを大きくするのに役立ったのである。

 ――労働者の消費資料を生産する産業や、そのような産業に原料や機械などを供給している産業部門で、技術が進み、労働生産性が上がれば、それらの生産物をつくるのに必要な労働時間が少なくてすむようになる。――ところが、労働力の価値は、生活資料の価値によって決定されるのだから、生活資料の価値が小さくなれば労働力の価値も小さくなり、したがって必要労働時間もみじかくなる。このばあい、必要労働時間がみじかくなっても労働日(一日の労働時間)全体がみじかくなるわけではない。

必要労働時間がみじかくなる分だけ剰余労働時間の部分が長くなるのは当然である。

 このように労働生産性を高め、労働日のうちの必要労働時間と剰余労働時間との相対的な割合をかえることによってより多くの剰余価値を生産することを相対的剰余価値の生産という。

 個々の資本家が同じ産業部門の他の資本家にくらべて、改良された機械や生産方法をとりいれたばあい、この資本家は他にくらべてより多くの剰余価値を手に入れることができる。これを特別剰余価値という。

 資本主義社会では、他の企業を出しぬいて自分だけが特別剰余価値を手にいれようという競争があるので、たえず新しい技術がとりいれられる。資本主義社会では、そういうかたちで技術進歩がおこなわれ生産力が発展する。

資本主義のもとでは資本家の個人の利潤追求に技術が追従する。もうからないばあい、新しい技術も採用されない。しかも、新しい技術によって、労働者の搾取は高められるのである。

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第6章 賃金

 資本主義のもとでは、労働力は商品となり、ほかの商品と同じように価値をもっている。労働力の価値が貨幣であらわされ、「労働力の価格」というかたちをとったのが賃金である。これが賃金の本質である。

 ところでじっさいの賃金の支払いにあたっては、賃金は、一日に働いた時間、あるいは一日に生産した個数などを基準にして計算される。そして一日(八時間)8000円とか、生産物1個あたり100円とか、いうふうに支払われる。このような賃金の支払い方をみると、あたかも労働にたいして賃金が払われているようにみえる。つまり、賃金は「労働の価格」のようにみえる。このように賃金は全一日の労働にたいする完全な支払いであるかのような外見をとっているために、余剰労働時間の搾取ということが、わからなくされているのである。

 だが一日八時間の賃金8000円というのは、じつは労働力商品一日分の価格なのである。

 賃金の支払いは、じっさいには、いろいろ複雑なかたちをとっているが、つきつめていけば、(一)時間賃金、(二)出来高(個数)賃金、という賃金の基本的な型が土台になっている。

時間延長のばあいも、労働強化のばあいにも、労働力の価値が大きくなる。というのは、残業をしたり、労働強化になったりすると、労働力の消耗度がふえ、回復のために消費資料がたくさん必要になるからである。だから、残業の割増がついたとしても、労働者はそれだけとくになるわけではない。

 出来高賃金は時間賃金から変形してきたものである。ある仕事についてみたばあい、一日あるいは一時間で何個製造できるか、ということはだいたいわかる。たとえば、労働者一人一日八時間の労働で80個の製品をつくれるものとし、それがいままで時間払い賃金8000円だったとしよう。資本家はそこから逆算して製品一個つくれば100円という賃金単価(レート)を決める。このばあい、資本家は、この賃金単価で労働者の稼ぎが、時間払いのばあいより多くならないように、はじめから計算に入れている。ここに出来高賃金が時間賃金の変形であることがあらわれている。しかしこうなると、ますます賃金は労働者の働きによるもの、つまり労働にたいする支払いであるかのようにみえ、労働力の価格ではないようにみえてくる。

 人一倍能力のある労働者、あるいは人一倍働くものは、ほかのものが一日に80個しかできないのに、100個できるというようなばあいが生まれる。一個100円の単価が決まっているとすると、この労働者は一日に8000円でなく、一万円かせぐことになる。そうすると他のものもかれに負けないように、さらにせいをだして仕事をし、一万円かせごうとする。こうして、労働強度が全体としてつよまった結果、一日に100個つくる者の数がふえてくる。ところが、資本家はこれをみて、まじめにやれば一日に100個できるではないか、いままでサボっていたな、といって、一日100個のノルマで8000円(一個あたり80円)というように単価を下げる。そうなると、もうこんどは、いままでのように80個ではなく、最低100個つくらねば食ってゆけなくなる。この水準のうえでふたたび労働者の競争がはじまり、能力のある者はたとえば110個つくるような労働者がでてくる。……こういうようにつぎからつぎへ単価切下げがおこなわれる。

 このように出来高賃金は労働強化をおしつける賃金であり、労働者がお互いに競争するなかで、全体として自分たちのくびをしめることになる賃金である。このばあいは、監督がいなくても、労働者はみずからすすんで労働強化をしなければならない。

 労働者が資本家から賃金としてうけとる貨幣額は、名目賃金とよばれる。この名目賃金の額がかわらなくても、たとえばインフレで通貨のねうちが下がり、前よりも生活資料を少なくしか買えなくなれば実質賃金は下がる。

 商品の価格は需要と供給の関係で価値以上になったり、以下になったりする。ところが労働力の価格は、ふつう価値以下に下がる傾向をもっている。それは第一に、労働者は労働力のねだんが引きあわないからといって、ふつうの商品販売者のように、ねだんが上がるまで労働力の販売(働きにゆくこと)をやめるわけにはいかないからである。第二に、資本主義がすすむにつれて、労働力が資本家にとって過剰になる傾向(失業がふえる傾向)があるからである。

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参照→【転記】社会福祉の目的 賃金理論

【転記】アベノミクスで本当に景気がよくなったら 腹切ってやるYO!

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第7章 資本の蓄積

 資本家が、同じような規模の再生産すなわち単純再生産をしていては、同じくらいの剰余価値しかえられない。剰余価値をふやしてゆくためには、拡大再生産をしなければならない。そこで資本家は、もうけた剰余価値の一部を積み立て、これを資本元本につけくわえ、できるだけ資本を大きくしようとする。このように剰余価値を資本へくり入れ、資本を大きくすることを資本の蓄積という。

 資本と資本のあいだに、市場争奪のあらそいが展開される。市場争奪戦に勝ちぬくためには、新式技術を採用し、大量生産方式をとることによって、自分の商品のコストを引き下げ(個別的価値を社会的価値以下に切り下げ)たり、新製品を開発したりして超過利潤をかくとくしなければならない。また自分の商品の販路をひろげ、できるだけひろい市場をわがものとするために、マスコミをつかって大量宣伝をせねばならない。

こうした競争の機構が、「そうしなければ没落するぞ」というかたちで、資本家を資本蓄積へとかりたてる。いわば一個の《外的強制力》として作用するわけである。

 社会主義経済でも企業はたがいに競争する。賃金の面で、「能力におうじて働き、労働におうじて受けとる」という社会主義(共産主義の第一段階)の原則がつらぬかれているのと同じように、企業の面でも、経済計算と採算性の原則がまもられていて、大きな収益をあげた企業は、収入の一部を、その企業じしんの文化厚生施設や働き手の割増賃金のつかうことをみとめられる。

 資本蓄積がすすみ、資本が増大してゆくと、資本の有機的構成がしだいに高くなってゆく。資本の有機的構成というのは、資本総額のなかで、機械設備や工場建物および原材料など生産手段のかたちで投下されている資本部分(不変資本C)と労働者をやといいれるのにつかわれている資本部分(可変資本V)とのあいだの比率をさしている。ところがこの比率がだんだん高度化する。すなわち不変資本と可変資本とくらべた割合(C/V)が大きくなる。なぜかというと、企業の規模が拡大するにつれて、高度な技術が採用され、労働生産性が上がるから、単位あたり労働者のうごかす生産手段(機械設備や原材料)の量がますます多くなり、したがって賃金支出にくらべて、生産手段への支出のほうが急速にふえることになるからである。

 年月がたつにつれて、人工はふえてゆく。また資本主義が発展するのにつれて、農民や手工業者の一部分も労働者にかわってゆく。こうして働き口をもとめる人びとの数がふえてくる。ところが、資本総額のなかで、この労働者をやとうのにむけられる可変資本の占める比重がだんだん低下するのである。このことから「失業」という重大な結果が出てくる。

 働く能力をもち、また働こうという意思ももっているのに、資本がやとってくれないために、心ならずも働き口をみつけだせない人びとの大群――これが資本主義特有の相対的過剰人口とよばれるものである。過剰人口とはいうものの、これは資本蓄積のつごうで労働から切りはなされているだけだけのことであって、社会の立場からみて余計者・無用者というのではけっしてない。その証拠に、社会主義経済では、経済の拡大速度がはやいし、また労働時間を短縮するから、どんなに技術や労働生産性が上がっても、失業者が出ないようにできるのである。

 第一は、「流動的過剰人口」。これは企業の操業短縮や企業閉鎖、あるいは新機械の導入などのために、くびをきられて、つぎにまたどこかで仕事にありつくまでのあいだ、失業させられている労働者のことである。

 代には、「潜在的過剰人口」。これはいままで農民であったが、資本主義が農村に侵入するにつれて、もう農業ではやってゆけなくなり、そうかといってすぐ工業部門で職をえることもできないで、農村にくすぶっている人びとのことである。

 第三は、「停滞的過剰人口」。これは定職をもっておらず、ときたま不規則な仕事にありつくが、その賃金もべらぼうに低い、そういった家内労働者や日雇い労働者の層のことである。

 資本主義の政府統計で失業者というときには、これらのうちの流動的過剰人口だけしかふくまれていない。だから、じっさいの失業者数は政府の発表する数字よりもずっと多い。

 資本主義は過剰人口をつくりだすが、つくりだされた過剰人口が、こんどは資本主義にとって必要欠くべからざるものになるのである。

 なにか有利な投資部門ができたようなとき、資本は突発的に生産を拡張しようとする。たくさんの労働者が必要だということになる。さてこのばあい、労働者にむかって、さあいそいで子供を産め、さあ早く育てろ、といったところで、そんなに急に労働力が増産できるわけがない。

まさにこんなとき、過剰人口が役に立つ。だから過剰人口は、別名、産業予備軍という。それは、いつなんどきでも資本の要求におうじられるように用意された予備労働力のプール(貯水池)である。資本は、不況になったり、新機械導入で労働力が不用になると、くびを切ってこのプールへなげこむ。必要がおこると、このプールから労働力をすい上げる。まことに便利な調節弁である。もし産業予備軍のプールがなかったなら、労働力不足のために労働賃金はピーンとハネ上がってしまう。ところがこのこの予備軍をもっているために、資本家は現役(就業)労働者の賃上げ要求をおさえ、賃金を労働力の価値以下にたもち、就業労働者に過労働をしいることができる。「ぐずぐずいう人間は、やめてもらおうか。働かせてくれという人間がいくらでもいるんだからな」というわけである。このように相対的過剰人口は、資本が労働者階級にたいする専制的支配を完成するうえで、かけがえのないものとなる。

 だから資本家は、この予備労働力のプールの底がみえてくると、そわそわする。そして、なんとかして産業予備軍のプールを満水にしておくようにと、政府のしりをたたく。わが国の「農業構造改善事業」や「中小企業近代化」は、零細農家や中小企業を保護しないで経営難へおいこみ、たくさんの農村人口や中小企業就業者を外へしぼりだし、大企業のための産業予備軍をたっぷりつくっておこうとするところに、一つのねらいがあった。

 労働者は資本の攻勢に対抗し、じぶんの利益をまもるためには、どうしても失業者の問題をもじぶんの階級の問題としてとりあげてたたかわなければならない

 資本の蓄積がすすむにつれて、労働者階級の貧困が増大する。

経済学で「貧困」・「貧困化」というばあいには、それは「肉体的な意味ではなく、社会的な意味で、すなわち、ブルジャワジーの需要や前社会の需要の高まりゆく水準と、勤労大衆の生活水準とが照応しない、という意味で」いわれていることに注意していただきたい。

 だからかりに実質賃金が上昇し、生活内容が前とくらべてよくなるというばあいでも、この意味での貧困化はなくなったわけではない。社会の総所得がふえ、文化が発達し、社会の生活水準が高まってゆく(ブルジョワたちの生活内容はいっそう豊かになる)のにくらべて、労働者の所得ではとてもこれを満たすことはできないからである。

 資本の蓄積がすすむにつれて、社会の一方の極には、富がどんどんつみあげられ、搾取者たちのぜいたくがひどくなってゆく。社会の他方の極では、失業が増大し、労働によって富をつくりだしている人びとの生活が不安定になってゆく。これが資本主義的蓄積の一般的法則である。

 資本家階級のあいだでは、多数の中小資本家は、没落するか大資本に支配され、ひとにぎりの巨大資本の制覇がすすむ。

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参照→【転記】派遣問題を経済学で紐解く

【転記】外国人労働者を受け入れる理由

相対的過剰人口

<a href="http://secret.ameba.jp/frederic-chopin/amemberentry-12004714409.html">『エッグ・スタンド / 萩尾望都』を読了</a>

萩尾望都「エッグスタンド」考察ラウルはその無意味さに気付かず、ずっと戦争をし... / Yahoo!知恵袋

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ラウルは死んだ黒いヒヨコ。ただ、彼はまだ目覚めていない。だから自分が死んでいるか生きているのかわからない。彼は死ぬ前に目覚めないといけないと思っている。ルイーズに死んでるってどういう気分かと問うのも自分が死んでいるかどうかわからないから。

ラウルはまだ目覚めていない。だから生きてるのかどうか分からない。自分の意思を持たない。ただ、エサを与えてくれるモノに従う。従うことが愛することだと思っている。

しかし、同時に彼を束縛しようとするものは壊さねばならないと思っている。愛されすぎたヒヨコが死なないように。愛しすぎて殻に閉じ込めようとするモノを殺す。

ラウルは人を殺す。彼にとって愛情と殺人は同じ。愛しすぎると殺すことになる。温め続けられた黒いヒヨコのように。だから、彼は殺す事を悪いとは思っていない。だから、彼は戦争を愛している。血を流す世界をいとおしく思っている。彼にとっては、殺人や戦争は、愛する行為と同じだから。

そして、ラウルはルイーズの口付けで目覚める。愛されることではなく、愛することを知る。それ以前から、実は愛していたことに気付いた、というべきか。しかし、同時に彼は愛し方が分からない。

それゆえに愛するという感情に戸惑うように涙をこぼす。

そして彼はドイツ高官を殺す。ついには、自分は何かを忘れて生まれて来た、と言う。

マルシャンはラウルを殺して、この世界は死んでいるのか?目覚める前の夢なのか?と自問する。

マルシャンは、愛情に目覚め、人を愛するという感情を理解できない自分を発見したラウルを殺した。愛情も殺人も同じというラウルを。おそらく、マルシャンもラウルを愛情をこめて殺した。

ラウルは世界も自分と同じだと感じていた。世界も、まだ目覚めていない。だから世界も自分が死んでいるのか生きているのか分からない。

そして、その感覚は、マルシャンに受け継がれている。

世界はようやく愛することに目覚めようとしているのか、それとも、すでに手遅れなのか・・・。

わたしは、戦争という人殺しを肯定する世界と、ラウルという人殺しに対する罪悪感のない人格をシンクロさせて、そこに、ある種の歪んだ愛情である「愛しすぎると殺すこともある」という真理(愛国であるとか正義であるとか、そういう理屈による殺人とか)に対して、愛されることとは、愛することとは、という問題を投げかけている作品ではないか、と愚考いたします。

愛しすぎると殺してしまう、また、殺される。そうした歪んだ愛情により起こりうる戦争をして、これは真に愛することに目覚めるまえの夢なのか、それとも、人類に愛されすぎた世界(人類自身)はもはや死んでいるのか・・・殺すことなく愛することはできないのか・・・そんな感じ・・・かしらん。

1.秘密を打ち明けたのは、ルイーズを愛し始めていたからだと思います。愛するルイーズの秘密を告白されたので自分の秘密も打ち明けた。また、秘密そのものは、単純に、殺人は犯罪という常識からでしょう。個人的な善悪は別にして。あるいは、ルイーズのユダヤ人だから殺されちゃうという言葉に反応してのことでしょう。ラウルにとって殺人は、一種の愛情表現なのです。

2.ラウルがルイーズを愛していたからだと思います。ラウルはルイーズにだけは自分から与えようとがんばるのです。そのシーンの直前のスミレの花とか。自分から愛するということを知らずに生きてきたのです。ラウルにとっての愛は愛されることであって、愛することではなかった、ということでしょうか。

3.思うに、ラウルは目覚めはしたものの、同時に自分が死んでいる事に気付いたのでしょう。つまり愛するという事に目覚めると同時に、自分には愛し方が正しく理解できない、ということに気付いたのです。

ラウルにとっての愛は愛されること(それも歪んだ形の)でしかなかったのです。彼にとって、愛される事に対する愛情表現(多分に歪んだ)が殺人である、ともいえます。彼にとって、愛しすぎることは殺すことなのです。

だから、彼は殺人を、戦争を、血を流す世界をいとおしいと感じてしまう。

そして、おそらくマルシャンもそれに気付いて、ラウルを殺したのです。

4.春=目覚め(ルイーズによる)、ではないでしょうか。ルイーズによって愛するという感情に目覚めたラウルのことを言っているのだと思います。

そして、世界をして、世界は愛する事を知る前に死んでしまったのか、それとも、これは、それを知るための産みの苦しみであり、目覚める前の夢でしかないのか、というマルシャンの自問に繋がっていくのでしょう。

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これまでに訪れた温泉③-1

1.王子温泉

大分市の中心地にある鄙びた温泉銭湯。

紅茶色のモール泉がかけ流し&カランからも源泉出し放題。

大分は別府や湯布院が有名だが、大分市にも高レベルの温泉銭湯がひしめいてる。特にモール泉なら大分市の温泉銭湯へ。

2.錦温泉 超お気に入り

大分市の温泉銭湯。

小金色のモール泉がかけ流し。ここのモール泉は今まで入ってきた中で一番いい香りだった。香り部門の殿堂入り。

3.亀川温泉 共同湯 浜田温泉

市営の広い施設。

薄緑色のお湯。天井が高くて開放感があって気持ちよかった。

4.鉄輪温泉 共同湯 熱の湯

鉄輪温泉の無料の共同湯で朝風呂!

鉄輪の街は石畳が綺麗で、そこら中から湯煙が上がっておりまさに「温泉街」という雰囲気。

5.鉄輪温泉 共同湯 渋の湯

竹製温泉冷却装置が唸りを上げる!

6.別府温泉 共同湯 上田の湯 九日天温泉 お気に入り

うっすらエメラルドグリーンに色づいたお湯が豊富にかけ流されている。

極上のお湯だったが、前日寝不足のため湯あたりしてダウン。あまり堪能できなかった。

今回の九州湯めぐりはここでラストとなった。

7.蔵前温泉 さらさのゆ

大阪府堺市のスパ銭。露天の源泉浴槽がなかなかよかった。ほんのり褐色透明の塩化物泉がドバドバ投入されている。ややモール臭も感知。

8.トキワ温泉 お気に入り

大阪府堺市の温泉銭湯。

単純泉だが、鮮度が良く温泉の良い香りが浴室に充満していて心地よかった。

お湯はほんのり緑に色づいて見える。ほんのり鉱物臭(と硫化水素っぽい香り?)がする。

驚きなのは源泉の投入量。ものすごいオーバーフローで浴室が洪水状態!

一つ言えばお湯がかなり熱かったのでもっとちゃんと換気をしてほしい。

9.南市岡田中温泉 お気に入り

大阪市の工場跡地に湧く温泉。地底旅行で食事をすれば入浴できる。

ものすごいかけ流し量で、オーバーフローしたお湯が床に溢れていたのでトド寝。

お湯は飴色で金気臭とモール臭(と硫化水素臭?)を感知。

10.クア武庫川

兵庫県西宮市の街中の温泉銭湯。

成分総計28gの暴力的な強塩化物泉。塩で身体がピリピリする。浴場は析出物でコテコテ。日本トップレベルの高張泉。

11.浜田温泉 お気に入り

兵庫県西宮市の温泉銭湯。

露天風呂が源泉かけ流し。ほんのり金気とモールの絶妙に良い香りがするお湯が滝のように注がれていた。洪水のようなオーバーフローを利用してトド寝してしまった。

露天はなかなか綺麗で開放感があって気持ちが良かった。

やはり阪神温泉郷はレベルが高い!

12.永和温泉 みそぎの湯 お気に入り

愛知県愛西市。源泉は湯の花がたくさん見られ、はっきりした硫化水素の香りと化石海水の混ざったいい香りがしていた。浴室が狭くて源泉がたっぷり投入されているので湯船に入るとオーバーフローで洪水状態にできる!

吉野家と神様。

13.尾張温泉 湯元別館

愛知県海部郡蟹江町。ほんのりモール臭と泡つきの良い湯。

14.双葉温泉

兵庫県西宮市の温泉銭湯。ほんのり塩気のあるお湯。

15.長門湯本温泉 共同湯 恩湯 お気に入り

長門湯本温泉の大湯的存在。

強アルカリでツルツル、無色透明のお湯。ほんのり硫黄が香る。

源泉温度がぬるくてずっと入っていられる。美しい御影石の湯舟は深めで気に入った。

16.俵山温泉 共同湯 町の湯

山口県長門市の名湯。強アルカリ性のお湯。

17.柚木慈生温泉 お気に入り

山口県山口市。物凄く濃厚な金気と炭酸の冷鉱泉。そして大量の気泡が肌に付く。

中国地方では一番濃いお湯ではないだろうか。

18.有福温泉 共同湯 やよい湯

島根県江津市有福温泉も山陰の旅情を感じさせてくれるお気に入りの温泉だ。

やよい湯は無人のお賽銭式。

19.小屋原温泉 熊谷旅館 お気に入り

島根県大田市。山の中の一軒家。

泉質は噂にきいてたほどは泡つきは感じられなかったが、旅館と浴室の雰囲気にヤられた。1時間半くらいゆっくりお湯に浸かった。

奥から2番目の浴室。

奥から3番目の浴室。ここの小さい浴槽が一番気に入った。

一番手前の浴室。

20.三瓶温泉 共同湯 亀の湯 超お気に入り

シンプルな浴室、楕円形の美しくて深い浴槽、大量に注がれる濁ったぬる湯、心地よすぎて2時間近く入っていた。いつまでもこのままあり続けて欲しい。

21.三瓶温泉 共同湯 志学薬師 鶴の湯

鶴の湯「源泉はぬるくて全部加温してると灯油代がかさむのでほとんど捨ててます」

極太の塩ビ管から注がれる掛け湯用の源泉。これでもう一つ源泉浴槽作ってくれー。

ここで山陰湯巡りの〆となった。

22.祖谷温泉 ホテル祖谷温泉 お気に入り

北海道のニセコ薬師温泉、青森の谷地温泉と共に日本三大秘湯の一つ日本数えられるらしい。

お湯は硫化水素臭をはっきり感じ、黒い湯の花、泡つき良好、源泉投入量多量、温めで長湯可能、景色良し、と文句無く心地よかった。

23.松尾川温泉

ヌルヌルの卵臭のするお湯。源泉投入量が少ないのがちと残念。湯口に顔をつか付けないと硫黄の香りを感じられなかった。

しかし、泉質とかけ流しで四国では貴重な良い泉質。

24.野沢温泉 共同湯 大湯

25.野沢温泉 共同湯 真湯

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【番外編】

別府(九州)で集めた温泉タオル

温泉スタンプ

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【再訪】

塚原温泉 火口乃泉 お気に入り

タオルから酸っぱいニオイがとれなくなってタオルが黄ばみまくった。

明礬温泉 別府温泉保養ランド お気に入り

この施設はいかにもダメそうな名前と外観だが、温泉はすごい。

硫黄の強烈な香りに包まれて、泥湯に入っていると地獄にそのまま入浴している気分。

泥湯は泥やコロイドの影響なのか浮力がかなり強くて、力を抜いて仰向けになればプカーっと浮かべる!(死海のイメージ) 2時間くらい浮いてたら顔が日焼けした。

六甲おとめ塚温泉 お気に入り

源泉がじゃんじゃんかけ流し。泡付きが良くて気持ちいい。

冬はおとめ塚、夏は灘温泉、と使い分けらるのが良い。

温泉津温泉 共同湯 元湯 泉薬湯 超お気に入り

施設外観とレトロな脱衣所。

日本海の白波、海沿いに広がる港町、橙色の屋根、山陰の全てが旅人の旅情をそそる。

最高の気分で温泉津入り。身体が冷えた朝一で元湯へ。

浴室の扉を開けるとこの浴槽。ため息。

朝一の元湯は熱すぎて10秒ちょっとでギブ。(48℃。47℃がまともに入っていられる限界かな。) 膝から下が最初に限界がくる。地元のおっちゃんが「熱い時は脚を冷たい水道水でよく冷やすと入れるよ」とアドバイスをくれた。

温泉津温泉 共同湯 泉薬湯 お気に入り

析出の芸術。

入浴後は2階の休憩室で無料のコーヒーがいただける。

灘温泉 六甲筋店 お気に入り

やはりここのお湯はすごい。泉質なら全国の有名温泉地と肩を並べるほどだと思う。

源泉浴槽の泡つきは相当で、これほどのアワアワはなかなかない。

銭湯料金で極上の天然温泉に浸かれるだけでなく、シャワーやシャンプーが備え付けなのもいい。

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【余談】

僕は、泉質はもちろんだが、かけ流し量が多いところが好みだ。

新鮮なお湯がザブザブオーバーフローしているとそれだけで幸せになれる。

温泉湧出量の目安: 20L/minが水道の蛇口を全開にしたくらいに相当する

今までに「ここはすごいかけ流し量だ!」と感じた温泉一覧

・トキワ温泉(大阪) 575L

・浜田温泉 甲子園旭泉の湯(兵庫) 650L

・南市岡田中温泉(大阪) 698L

円山川温泉(兵庫) 512L

・姉戸川温泉(青森) 337L

三瓶温泉 亀の湯 不明

・奴留湯温泉(熊本) 不明

・八九郎温泉(秋田) 不明

・浜脇温泉(大分) 不明

湧出量(L/min)とは別に、「オーバーフロー量」という指標を導入してほしい。投入量(L/min)/湯船の体積(L)でどうか。

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これまでに訪れた温泉②-2

これまでに訪れた温泉③-2

【まとめ】画像⑩

ねこ頭悪すぎワロタwwwwwwwwwwwww/はれぞう

史上最もニヤニヤできるネコGIF画像/ハムスター速報

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黄河の大放水。信じられない光景!(写真)

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