科学隊

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【転記】“殺された被害者の人権はどうなる?” このフレーズには決定的な錯誤がある

森達也:DAIAMOND onlineより転記

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“殺された被害者の人権はどうなる?”

このフレーズには決定的な錯誤がある

森達也 リアル共同幻想論

【第50回】 2012年2月2日

◆元最高検検事、土本武司筑波大学名誉教授の発言

 この10月、大阪で起きたパチンコ店放火殺人事件の公判に、「絞首刑は残虐な刑罰を禁じた憲法に違反する」と主張する弁護側の証人として、元最高検検事の土本武司・筑波大名誉教授が出廷した。自ら死刑執行に立ち会った経験を踏まえながら、「(絞首刑は)正視に堪えない。限りなく残虐に近いものだ」と証言した土本は、死刑制度そのものについては「憲法は、法律によればどんな刑罰も科せるとしている」と肯定しながらも、「残虐でないことを担保するような方法でなければならない。その検討がこれまで不十分だった」と指摘した。さらに自らが求刑した死刑囚と文通を重ねるうち、「改心していく彼を刑場に送っていいのかという気持ちになった」とも証言した。

 この記事を新聞で読んだとき、僕は少しだけ複雑な気持ちになった。死刑存置論においては重要な権威で理論的支柱でもある土本とは、これまで『朝まで生テレビ』(テレビ朝日)などで何度か顔を合わせている。いつも強硬な死刑存置論者の印象だった。その土本が、なぜ一転して廃止論者のようなことを公の場で言ったのか、その真意がどうしてもわからない。

 目の敵にしているわけではないけれど、2010年10月に刊行した『極私的メディア論』(創出版)で、僕は土本を強く批判している。この少し前に月刊誌『WEDGE』で見かけた土本の寄稿エッセイ《外国人の「犯罪天国」日本》の論旨があまりに粗雑で結論ありきの文章だと感じたからだ。以下に引用する。

(前略)在日外国人の検挙人員は、ここ20年で約半減している。ところが土本は、2006年の来日外国人犯罪の総検挙数が、(前年と比べたら減少していることには言及しながらも)10年前の1996年における総検挙数と比較すれば、件数は約1.5倍に、そして人員は約1.6倍に増大していると指摘しながら、「懸念すべき状況にある」と書いている。

 この10年に区切るのなら確かに増えている。当たり前だ。だって来日する外国人の数が、この10年で3割から4割ほど増えている。でも警察庁の犯罪統計は、このデータにまったく触れていない。(中略)外国人犯罪が増加していると断定した土本は、いかに外国人犯罪が危険で凶悪であるかを何度も強調してから、

《現に、同年末、全国20歳以上の3000人を相手に実施された「治安に関する世論調査内閣府)」によれば、「治安が悪くなった原因は何か」という問いに対し、「来日外国人による犯罪が増えたから」と答えたものがトップを占めている(55.1%)。》

 と記述している。奇妙な文章だ。「現に」と副詞を置いたのなら、普通ならこのあとには実例がくる。だって「現に」なのだ。でも土本がこのあとに記述したのは内閣府のアンケート。実例ではない。ならば使うべき言葉は、「現に」ではなく「ちなみに」あたりにすべきだ。アンケート(民意)はデータによって形成される。ところが土本はそのデータを補強する要素として、アンケートの結果を挙げている。メビウスの輪のような論理展開だ。そもそもこのアンケートの前提が怪しいのだ。でも「現に」と言われれば、前提の知識や情報を持たない人は何となく納得してしまうのかもしれない。こうして虚偽のデータが流通し、この国における管理統制への希求は加速するばかりだ。

◆「治安が悪化している」という前提がまず錯誤なのだ

 ……こうして引用しながら読み返すと、(我ながら)相当に辛辣というか揚げ足とり的なニュアンスが、ちらちらと見え隠れしている。明らかに感情が先行している。少しだけ反省。でも「虚偽のデータが流通し、この国における管理統制への希求は加速するばかりだ」という結びのセンテンスを修正するつもりはまったくない。その状況は今も進行している。

 厳罰化や管理統制の強化を肯定する多くの識者は、この国の近年の治安悪化を理由に挙げるけれど、その前提がまずは錯誤なのだ。治安は悪化などしていない。殺人事件の認知件数は毎年のように戦後最少を更新している。過去との比較だけではなく世界各国との比較においても、日本は現状において世界有数(ほぼトップレベル)で治安が良好な国なのだ。とにかくこの時点において土本は、まさしく(僕にとっては)頑迷な識者の筆頭だった。

 そして11月27日、京都産業会館で開催されたシンポジウム「第41回 憲法と人権を考える集い」(主催京都弁護士会)に、僕と土本は、パネラーとして参加することになった。

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 今年のこの催しのサブタイトルは「死刑、いま命にどう向き合うか」。3人目のパネラーは、元刑務官で現在はノンフィクション作家である坂本敏夫。つまり、とりあえずのバランスとしては、森と土本が死刑廃止と存置それぞれの両端で、坂本は(廃止よりでありながら)実践的な提唱をするポジションと位置付けられる。要するに対立構造だ。もちろんシンポジウムなのだから、この人選は間違っていない。パネラーたちが同じような意見を言いながら互いに頷き合うだけのシンポジウムやトークショーならば、参加する意味はほとんどない。

 ……とは思いながらも不安だった。現在の土本のポジションがよくわからない。思想や哲学は簡単には変わらない。真意は別のところにあるのだろうか。とにかく会って確かめたいと考えながら、早朝の新幹線に乗った。

◆レポート発表を終えた高校生たちに罵声が飛んだ

 催しの第1部では、地元の京都宇治高校の生徒たちによる死刑制度についてのレポート「高校生からの調査報告」が行われた。およそ20人近くの高校生たちは、この調査をする前までは、死刑制度についてほとんど疑問など持っていなかったという。例えば夜に眠り朝に目を覚ますように、あるいは水が高いところから低いところへ流れるように、凶悪な罪を犯した人は処刑されて当然なのだと思っていたという。

 つまり前提だ。

 でも被害者遺族やかつての冤罪死刑囚、教誨師や元刑務官などに会って話を聞きながら、彼らは少しずつ意識を変えた。もちろんあっさりと廃止派に転向などしない。もしそんなドラスティックすぎる変化があるのなら、それはそれでどうかと思う。

 彼らは揺れる。死刑は本当に正しい選択なのか。被害者遺族の傷を本当に慰撫するのか? 仮に慰撫するにしても、それは人の命を犠牲にすることに価するのか? あるいは人の命を踏みにじった命なのだから、犠牲になって当然なのか?

 そんな自分たちの揺れる意識を誠実に提示しながら、高校生たちは1時間余りのレポート発表を終えた。ニュアンスとしては死刑制度への懐疑が色濃い結論だった。でも断言はしない。できない。いずれにせよ知ることで変わった。ならばこれからも知り続ける。知らないことはたくさんある。知り続け、そして考え続ける。最後に高校生たちが一列に並んで頭を下げたそのとき、客席から罵声が飛んだ。

「被害者の人権はどうなるんだ!?」

 会場は静まり返った。最前列に座っていた僕は後ろを振り返った。年配の男性だった。険しい表情をしていた。男性はさらに何か言った。かなりの大声であり、かなりの剣幕だった。バカヤロウやフザケルナ的な言葉そのものは発さなかったけれど、バカヤロウやフザケルナ的な雰囲気を男性は濃厚に発していた。

 僕は視線を前に戻す。壇上で高校生たちは動揺していた。硬直していた。涙顔になっている女の子もいた。全員が沈黙したまま、第1部が終わった。

◆加害者の人権への配慮は被害者の人権を損なう!?

 ネットや週刊誌などでも、死刑反対を訴える弁護士や知識人たちへの反論として、「殺された被害者の人権はどうなるんだ?」は、ほぼ常套句のように使われるフレーズだ。ならばもう一度反論しよう。

 このフレーズの前提には、(治安悪化を理由に厳罰化を正当化するロジックと同じように)決定的な錯誤がある。

 高校生たちは「被害者の人権を軽視しましょう」などとは発言していない(当たり前だ)。ただし加害者(死刑囚)の人権について、自分たちはもっと考えるべきかもしれないとのニュアンスは、確かにあった。そしてこれに対して会場にいた年配の男性は、「殺された被害者の人権はどうなるんだ?」と反発した。つまりこの男性にとって被害者の人権は、加害者の人権と対立する概念なのだ。

 でもこの2つは、決して対立する権利ではない。どちらかを上げたらどちらかが下がるというものではない。シーソーとは違う。対立などしていない。どちらも上げれば良いだけの話なのだ。ところが加害者の人権への配慮は被害者の人権を損なうことと同義だと思い込んでしまっている人が、あまりに多い。いつのまにか前提になってしまっている。

 大きな事件や災害が起きたとき、この社会は集団化を強く求める。そしてこのときに集団内部で起きる現象のひとつが、構造の簡略化や単純化だ。911後のブッシュ政権や同時代の小泉政権を振り返れば、その傾向は明らかだ。例えば黒と白。敵と味方。右と左。善と悪。そして加害者と被害者。つまりダイコトミー(二項対立)だ。

 発達したメディアによって単純化はさらに加速される。なぜならば単純化したほうが視聴率は上がり、部数が伸びるからだ。要するに雑誌の中吊り広告の見出しだ。こうしてあらゆる要素は四捨五入され、グレーな領域は切り捨てられ、二進法のデジタル世界が現出する。善と悪はそれぞれ肥大し、正義や大義は崇高な価値となり、悪人は問答無用で殲滅すべき対象となる。

 僕たちは今、そんな世界に生きている。

◆死刑制度の存廃論議をするなら、まずは情報公開すべき

 第2部のシンポジウムで発言を促された僕は、そんな趣旨を喋りながら(年配の男性が第一部だけで帰ってしまったことは後で知った)、隣に座る死刑存置派の重鎮である土本から反論が来るだろうかと身構えていた。でも反論はなかった。ないどころか土本は、とても自然に僕に同意した。死刑制度を廃止すべきとまでは言わなかったけれど、現況の制度にはあまりに問題が多く、存廃論議をするならばまずは情報公開をすべきであるとの意見は、坂本も含めて3人が一致した。

 何人かの男性や女性が、不愉快そうな表情で退席した。その様子を壇上から見つめながらも、土本の言葉は揺るがなかった。「絞首刑はあまりに残虐である」と何度も強調した。

 人は変わる。絶対に変わる。変わらない人などいない。最近の死刑判決では「更生の可能性がない」とか「見込めない」などの述語が常套句になっているけれど、なぜこのような断言ができるのだろう。なぜこれほどあっさりと可能性を排除できるのだろう。まさしく「人」を軽視している。

 二項対立は概念だ。現実ではない。あらゆる現象や状況は多面的で多層的で多重的だ。僕の中にも善と悪がある。あなたの中にもある。とても当たり前のこと。でも集団化が加速するとき、二項対立が前提になる。明らかに錯誤だ。多くの人はその矛盾に気づかない。立ち止まってちょっと振り返れば気づくのに、集団で走り始めているから振り返ることもしなくなる。

 今回は最後に、編集担当の笠井から原稿送付後に送られてきたメールの一部を貼りつける。

 被害者や遺族の感情を慰撫するのは、その人たちの気持ちを代弁することではなく、その人たちの感情に寄り添う努力をすることではないでしょうか。辛いと言っている人を見て、「この人は辛いんだぞ! なんでわかってやらないんだ」と叫ぶのはやはり違うと思います。そもそも第三者の気持ちを代弁することなどできないはずです。

 誰かがしている酷い行いに対して憤りを感じるのは当たり前ですし、それを第三者が「私は許さない」と考えるのも自由です。ですが、あくまでも主語は「私」であるべきで、「被害者の人権はどうなる?」と叫ぶのは違う気がします。

 僕も違うと思う。でもこの国では今も、その叫びが日々大きくなっている。

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加害者にも被害者同様の人権があり、それは尊重されなければならないと言うこと、これを認めることができない人が多過ぎる。なぜ殺人を犯さなければならなかったのか、きっと多々な理由がそこには存在する。それを問答無用で死刑に処して一体何が救われるのだろうか。

日本の殺人で一番多いのは親族殺人、問答無用で死刑にする質ではない。

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以下、mixiの猫王さんのコメントを転記。

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これ、文章もうまいし

とてもいい記事だなと思います

さすが森達也さん!

だけど、これって

死刑に反対したい人が、感心するだけであって

死刑制度は正しいと信じて疑わない人には

影響を与えることは、ないんじゃないかな?

死刑問題は、私が日記で解説しているように

今の刑法、刑罰の体系が

根本的な矛盾を抱えていること

それを知らない限り

理屈で死刑制度が間違っていることを理屈で理解できないんだよね

死刑制度がなくならないのは

なくそうとする側は、感情で反対している部分が強いのも

一つの原因だと思う

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参照

【転記】死刑では何も解決しない

【転記】なぜ犯罪者の人権を守らないといけないのか?