芸術作品と科学技術
主観的要素の強い、芸術というものをどう評価するべきか。
「レベルの高いモノ」は確かに存在すると言いたいけれど、それはどのような基準でそう言えるのか。
具体的には、ピカソの奇妙な絵のようなものはどのように評価すればいいのか。
文化、歴史、政治、思想・哲学、など、評価をする観点は様々であるが、芸術作品と科学技術というテーマに焦点を当てた。
科学の観点から芸術を評価するのである。
(内容はほぼ、山形浩生の書いたテキストからの引用)
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芸術作品と科学技術の結びつき
芸術作品からどのようなことが読み取れ、それがどのように科学と結びつくのかということについて論ずる。
以下、科学と結びつくような芸術作品の解釈を3つ挙げる。
・芸術作品から人間の情報処理方法を読み取る
絵というのは、ただの色のついたペンキの集まりにすぎない。しかしその集まりをみて我々はなにやら物体を見てしまう。いや、物体だけでなく、色々と変なものをそこから感じ取ってしまう。でたらめな点の集まりにしか見えなかったものが、ちょっとしたきっかけでまったく別のところに目の焦点が当たり、その瞬間にいきなり、今までまったく見えなかったものが見えてくるということがある。スーラの点描はこれを芸術に応用したものである。また、エッシャーのだまし絵も我々がおかしなものを見てしまう例である。
それは生理的な現象でも言えて、例えば我々はポルノを見て興奮するが、我々はそれが紙の上のインキだというのを知っている。そこに実体としての肉体があるわけじゃないのを知っている。知っているけれど、見て興奮してしまう。
このことを我々の情報処理系の手抜きを結びつけることができる。それっぽいものが見えていれば、途中を省略して、ポルノの場合ならば、すぐに興奮を始めてしまう。これは我々の情報処理系が手抜きをしているからである。
芸術やポルノは、人間の情報処理の手抜きを明らかにしてくれる。たった一つの線、変な四角、まるで実物とちがった形態、でもそれを見て、我々は何かを感じてしまう。このことは、それが対象の本質を描き出しているから起こるということではなくて、そうした変な描き方、変な表現が抽出しているのは、我々人間の頭の情報処理の本質であり、スーラの点描やエッシャーのだまし絵などの芸術作品は、そのことをわかりやすい形で我々に突き付けてくれる。
優れた芸術作品は、我々自身について、自分でも知らなかったことを教えてくれるのである。
・芸術作品から人間の生物としての特性を読み取る
千利休は、それまでだれも美しいと思われていなかったとと屋の茶碗に美を見出し、それが以後広く受け入れられている。またロックミュージックも同じであり、それまでには考えられないノイズまみれの音が人々に受け入れられるようになった。人々はロックを本当にいいと思って聴いている。つまりはそれまでとまったく違った美の概念ができて、それが定着している。
このような考え方を基に、人間の生物としての特性を読み取ってみる。新しい概念が定着したことについて次のように考えていく。なぜ急にそういう変化が起きたのであろうか?ノイズ音楽をきくと生殖器官が振動して子孫を残しやすくなるために、ある時一瞬で遺伝的にそういうものを美しいと思う遺伝子ができあがったのか?いや、そんなことがあるわけがない。もしそれが遺伝的なものだとしたら、それは昔からあったものだ。でも、なぜそんな遺伝的な回路があるのだろう?・・・
以上のような考えに結論を出すことは僕には不可能である。しかし、芸術作品を見たことによって思考が生まれた、ということが重要なのだ。ノイズまみれのロックに人が反応するのはなぜか?それは科学によって導かれるものではなくて、その逆である。つまり、芸術作品の解釈が科学を導くのである。1でも述べたが、本当にすぐれた芸術やアートというのは、これまで科学の知らなかった人々の感覚や情動を掘り出してくれるものだ。
すでにわかっている感覚反応をなぞるのは簡単だけれど、わかっていない新しい情動のツボを見つけるのはずっと難しい。でもそれを成功させることがあるからこそ、芸術やアートは社会においてそれなりの価値を認められているのだろう。
少し2の本題からはそれるが、新たな感覚反応を発見させるという観点から考えて、新たな試みをしている芸術作品は価値があるといえる。ピカソの絵に価値を見出すポイントの一つにこれがある。
・芸術作品からある時代の技術の限界を読み取る
一定の精度を超えた技術も芸術と呼ばれるにはふさわしく、その中でも価値のある芸術は、その時代において新規性となる要素が必ず含まれている。多くの技術や文化を踏襲していてかまわないが、それに何か新しい要素を一つだけ組み合わせる。この点において高精度の技術作品にはその時代の技術の限界が表れているといえる。
例えば世界一直角な金属がある。これは垂直な地面から東京タワーの高さまで線を引っ張っても数センチ数ミリの誤差しかでないという技術の結晶で、「芸術の域」と呼ぶにふさわしい。直角な金属はそれまでも存在したが「現代の技術でしか再現できない精度」という新規性を組み合わせたことによって芸術的価値がもたらされたのである。
また世界最速のサイコロ、というものが存在する。これはロケットやF1に使われるチタン削り出し技術を使って作った、チタン製のサイコロである。それのサイコロは、すさまじい精度で分子レベルまで計算されたものであり、その表面の平らさはそこらのサイコロの比ではない。表面のひずみは投げた時に乱流を生じ空力特性が悪くなるため、それがないこのサイコロは、そういう乱流による速度低下が生じないから最速というわけだ。さらにそのサイコロは、各目の刻みの量まで計算されており、各面の重量が完全にバランスされている。現代技術で考えられる限り、最も正確かつ厳密なサイコロである。
これは音楽においても同様であり、エレクトロポップは従来の音楽の蓄積された文化や技術に加えて、現代の音楽編集技術を組み合わせているからこそ、その音楽達に価値がある。
さて、この直角な金属やサイコロの価値は、人類全体に及ぶという点が重要である。なぜならばそれは、人類の物質世界との関わりの目下の限界を表すものだからだ。それ自体が、その到達点であり限界となっていて、そこに価値がある。
これは現代の最新の科学技術だけに言えることではない。呪術や宗教的なオブジェ、あるいは生活用品、それらが芸術的な価値を持つことがあるが、それはすべて、その時代においてある物理的制約、物質的制約に対して人間が必死で出した答そのものであるからだ。
魔術も当時の人間にとっては「合理性」を持っていた「科学」であった。現代の科学的基準からすれば間違っているにせよ、当時の人たちにとっては合理的であり、決してただのパフォーマンスではなかったはずだ。サイコロの表面が分子級の精度を持ち、文鎮に原子レベルの格子欠陥があってはならないのと同じ意味で、彼等の宗教的「作品」にも譲れない仕様があった。そしてそれはその時代に人間が可能な最高レベルのものであり、そこに価値がある。
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ピカソの絵はもちろん、それまでに無かった表現方法を用い、既存の価値観を脱却したという点で価値がある。(客観的な評価)
しかしそれだけでなく、そこから刺激を受け、新たな思想・科学が生まれる可能性があるという点に価値を見出すことができる!
(ピカソの絵からどんな刺激を受けるかはそれぞれなので、主観的な評価にはなってしまうが)、こっちの評価方法のほうが僕には面白かった。
引用元:
山形浩生のテキスト
ここでは芸術を評価するのに以下の視点を6つ挙げている。
1.文化、2.歴史、3.政治、4.思想・哲学、5.科学技術、6.言い訳
どれも非常に面白かった。