科学隊

ささやかな科学と哲学のバトンを渡すための情報交換の場所です。

<a href="http://secret.ameba.jp/frederic-chopin/amemberentry-11838200564.html">『超常現象をなぜ信じるのか 思い込みを生む「体験」のあやうさ / 菊池 聡』を読了</a>

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こうした誤信念は、科学的な知識や常識の不足から生まれるとはかぎらないというのが非常に興味深い点です。そこにはもっと深く、人間の心の本質に根ざした心理システムが影響を与えているのです。

体験が信じる心を生む

不思議現象を実際に体験することこそが、確信とも言えるほど強力な信じ込みを生み出すことは、多くの研究者によってたびたび指摘されていることです。

不思議なできごとを体験した人は、その合理的な解釈を考えた結果、どうしても超常的な説明を導入せざるをえない状況になってしまうというのです。

コンピューターや情報処理理論の発達を受けて、心の働きを一種の情報処理系としてとらえる考え方が台頭してきました。これが現在の心理学の主流である「認知心理学」です。

人の心の働きを実証的に解きあかしていく、自然科学に近い分野で、「心の科学」とか「心のサイエンス」とも呼ばれています。

とはいえ、脳や神経系などの働きを直接研究する神経科学や生理学とも異なります。これらが脳というハードウェアの科学であるのに対し、認知心理学は心というソフトウェアの科学と位置づけることができます。

認知のエラーと誤信念

「何かを見たり聞いたりして、その現象のもつ意味を判断する」全体を体験ととらえるなら、体験とは知覚、記憶、思考のすべての認知処理を含んで成立するものだと言えるでしょう。

だとすると、これら一連の認知情報処理のどこかで情報処理の錯誤(エラー)があると、最後に誤った判断や信念へとたどり着く可能性が生じます。

こうした認知のエラーは無秩序にランダムに起こるのではなく、その背景に一連のエラーを系統的に説明できる要因があると考えられています。それを探る研究が「認知的バイアス」の研究です。

私は、この認知バイアスこそが、不思議現象に対する誤った信念を生み出す大きな要因になっていると考えているのです。

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【知覚】

第2章 「自分の目で見たもの」は信じてよいのか?

「自分の目で見るまでらとても信じられなかった」不思議現象の目撃者はよくこう言います。「自分の目で見たこと」という表現は、しばしば「たしかなこと」「間違いのないこと」の代名詞のように使われます。しかし自分の目で見たことは、それほど確実なことなのでしょうか?

認知心理学の研究成果によれば、知覚過程においても、知識や経験を利用した一種の推論ともいえるトップダウン処理が、非常に重要な役割をになっているのです。

日常ごくふつうに見ている物事の中に、知覚情報が変容してしまう現象は必ず潜んでいるのです。それだけでなく、私たちの知覚システムの中には、正しい情報にバイアスをかけて変容させてしまう仕組みがあらかじめ組み込まれていたのです。

スキーマは、この多様な世界を特定の形、特定の方向に切り取る(焦点化する)ことで、認知を成り立たせてくれる重要な働きをしているのです。日常生活の中のあらゆる認知活動で、知らず知らずのうちにスキーマが働いています。私たちの知覚とは、自分のスキーマに沿って外界の情報を解釈し、対象の姿を再構成する過程なのです。

見たいものが見える

二枚のトランプカードをごく短時間だけ見せて、見えたものをすべて報告させるという古典的な実験があります。

そのカードの中にはスペードのエースが五枚入っているのですが、ただしそのうちの二枚は、実際にはありえない赤のスペードのエースになっているのです。

その結果、カードを見せられた人の多くは、スペードのエースは三枚しか報告することができませんでした。赤いスペードなどそれまで見たことがないので、無視されてしまったのです。この実験からも、自分のスキーマから予期できない対象は、正しく知覚することが非常に難しくなることがわかります。

世の中のさまざまな物事に対する経験や学習の内容は、人によって少しずつ異なっていますから、特定の事物に対するスキーマも、それぞれ少しずつ異なっていることになります。ということは、たとえ同じものを見たとしても、その人独自の予期にもとづいた推論の結果、異なる知覚が生じることになります。つまり、人はそれぞれ「自分の見たいと思っているようにものを見る」という知覚システムを備えているのです。

遠くを飛んでいる飛行機や鳥などの正体を確認するのは至難の業で、これらは一種のあいまいな多義図形の性格を帯びてきます。そんな場合には、すでにもっているスキーマに沿って予期が働き、トップダウン的な知覚的推論が強く行われます。その結果、円盤形UFOを見たという体験が生じるのです。

これは別に目撃者が嘘をついているわけでも、幻覚を起こしているわけでもありません。本当にUFOを目撃しているのです。ただし、その信念と事実必ずしも一致しないところが問題なのです。

知覚の恒常性

ビデオカメラを持って歩きながら撮った映像は、揺れ動くのですぐに手持ちたとわかります。私たちが寝転がったり走り回ったりすれば、手持ちカメラのように網膜像もはげしく揺れるはずです。にもかかわらず私たちは、視覚が動揺していると意識せず、まわりの風景を安定して見ています。

人の知覚システムはこのように非常に精巧にできています。ただし、そのシステムの精巧さゆえに、ちょっとしたきっかけで知覚のエラーが起こってしまうのです。にもかかわらず、私たちはそれがエラーであることになかなか気がつきません。

人が信念を形作るきっかけとして、自分がこの目で見たという体験は非常に強い影響力があります。だからこそ、知覚の性質を理解し、自分の目撃体験を冷静に考えなおす必要があるのではないでしょうか。

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【記憶】

第3章 体験していないことをなぜ「体験」できるのか?

深刻なのは「事実とは異なる情報が思い起こされてしまう」という意味での記憶の不確実性です。つまり、記憶システムの中で、記憶情報の変容が起こってしまう場合です。

参加者に何も知らせず、控え室にしばらく待ってもらいました。この部屋には机やタイプライターなどが置かれ、いかにも大学院生の研究室のようにセットされています。次にその人は別の部屋に招き入れられ、そこで「最初の部屋で見たものをすべて思い出す」という予期しない試験を受けました。

その結果、本やファイルキャビネットなど、実際には部屋になかったのに、いかにも大学の研究室というスキーマに適合するものが、いくつも思い出されてしまいました。

このようにスキーマは、記憶内容をゆがめるだけでなく、実際には見ていないものまで思い出させることもあるのです。

目撃後の事後情報によって、記憶が誘導できることやくりかえし実証しました。それも、誘導された偽りの記憶は、ホンモノの記憶と区別がつかず、本人にとってはごく自然な記憶になっていたのです。

女学生二人がベンチに荷物を置き、時刻表を確認するために荷物から離れます。するともう一人の学生が、いかにも人目を避けるように荷物に近づき、そこから何かを取り出してコートの下に隠すフリをし、急いでそこを離れてしまいます。

やがて戻ってきた女学生は「まあ、私のテープレコーダーがなくなっている!」と叫びます。

後日、それらの目撃者たちに操作担当者をよそおって話を聞いたところ、興味深いことに、目撃者の半数以上がテープレコーダーを実際に見たと答えているのです。そればかりか、存在しないテープレコーダーについて、多くの人がかなりくんしく色はグレーだとか、アンテナがついていたとか、本当に見たようにいきいきと目撃談を語ったのでした。

誘導尋問とは、単に相手の口をすべらせて証言を引き出すテクニックではありません。場合によっては相手の記憶を変容させる事後情報として働き、あたかも本当の記憶を引き出すように、偽りの記憶を思い出させることもできるのです。

質問の仕方で想起される情報自体が変わってしまうことが報告されています。

参加者は、まず車同士が衝突する場面のフィルムを見せられ、その後で、この事後で車はどれくらいスピードを出していたと思かを聞かれます。

ただしこの時、ある人は「車が衝突したとき、どれくらいのスピードが出ていましたか?」と聞かれ、別の人は「車が接触したとき」と質問が変えられていたのです。

その結果、すべて同じフィルムを見たにもかかわらず、スピードの平均推定値は「激突」の場合が40.8マイルともっとも速くなり、「接触した」は31.8マイルともっとも遅くなりました。

一週間後に「あなたは車のガラス破片を見ましたか?」と質問してみました。実際のフィルムでは、ガラスの破片は写っていません。

その結果、実際にはなかったガラスの破片を見たという人の割合は、「激突した」と事後情報を与えられている群では、「当たった」群の二倍以上になったのです。

ソース・モニタリングの混乱が起こると、自分で目撃した事件と、後に他人から聞いた事後情報の二つのソースが混同されて区別がつかなくなります。ところが事件の内容自体は鮮明に思い出せるため、自分は誤った想起をしているという自覚のないまま、他人から聞いた話をあたかも自分が目撃したことのように思い出してしまうのです。

長い時間が経つと、たとえ信憑性の低い情報でも、高い情報と同じくらいの説得効果を発揮してしまったのです。

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要因1 「予知夢」や「虫の知らせ」に近い体験をした(直接体験)

   他人からもそんな経験を聞いている(間接体験)

              ↓

要因2 ただの偶然でそんなことが起きるとは思えない(確率推論)

              ↓

結論 「予知夢」や「虫の知らせ」が起きる裏には、まだ知られていない現象や不思議な力(テレバシー、霊視)などがある。

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【思考1 関連性の錯誤】

第4章 その考え方は正しいのだろうか?

問題2

正の三つの整数でできた数列2・4・6があります。このような数列を仮に「三つ組数」と呼びます。

この三つ組数は、数字の並びに関するあるルールにしたがって作られたものです。あなたはできるだけ早くそのルールをみつけだしてください。

そのためにあなたは正の整数三つからなる三つ組数を自由に作り、それがルールにしたがっているかどうか、出題者に質問することができます。質問した三つ組数がルールどおりなら「イエス」、ルールに合っていなければ「ノー」と答えが返ってきます。

あなたは、このイエス・ノーを手がかりにルールを推定していきます。

2・4・6はルールに合っています(イエスです)。

あなたは次にどんな三つ組数を作って質問しますか?

あなたの考えたルールは正解かというと「増加する偶数列」でも「等間隔で増加する数列」でもありません。正解のルールはもっと単純で、単に「増えていく数列」なのです。

ほとんどの人は、まず自分なりにルールを考え(仮説を立て)て、それを検証するために質問します。この仮説検証のパターンには「自分の仮説が合っていればこうなるはずだ」というように、仮説に合っている事例(正事例)を出して仮説を確認しようとする傾向が強く出ます。逆に、仮説が合っていればこうはならない事例(反証例)を出してたしかめようとする人はほとんどいません。

具体的に言えば、「増えていく偶数」という仮説をもった人は、そのような数列、たとえば8・10・12を試して仮説を確認しようとしたでしょう。また「等間隔に増加する数」と考えた人は8・10・12や1・3・5、あるいは10・20・30といった数列を出したと思います。つまり自分の仮説に一致する証拠を試してみて仮説の正しさを確認しようとしたはずです。

これに対して、自分の仮説を否定する数列、すなわち等間隔でない数列や減少する数列やあげた人はごく少ないはずです。

この問題に取り組んだ多くの人は、明らかに、自分の仮説の反証例を検討せず、合致する数列だけを使って確認し続ける傾向が見られました。

このような、仮説を正事例で確証しようとする思考傾向は、「確証バイアス」と呼ばれています。

問題3

[A] [K] [4] [5]

片面に数字、もう片面にはローマ字の書かれているカードがあります。そして、「もし、カードの片面にローマ字の母音が書いてあれば、その裏面の数字は偶数である。」というルールがあるとします。

ここにある四枚のカードでは、このルールが成立しているかどうかをたしかめてみようと思います。そのためには最小限どのカードをめくってみればよいでしょうか?

カードは何枚めくってもよいのですが、できるだけ少ない枚数をめくってルールを確認してください。

あなたはどのカードをめくりますか?

ルールは「片面が母音なら、裏は偶数」としていますが、「片面が子音だった場合」は何も制限していません。つまり母音の裏には必ず偶数がくる必要がありますが、子音の裏は偶数でも奇数でもどちらでもかまわないのです。

これは別の見方をすると、偶数の裏は母音でも子音でもどちらでもよいが、奇数の裏は子音でなくてはならないということです。4の裏は母音、子音どちらでもよいのです。

そこでどうしても必要なのは5のカードの確認です。もしこの5の裏に母音があったら、反証例となってルール成立しないことがはっきりします。

確証バイアスと相関の錯誤

私たちが予知夢現象を実感するのは、ほぼ間違いなく「夢を見た」ら「その通りの事件が起こった」ときでしょう。一方、「夢を見なかったのに事件が起こった」と「夢を見たのに何も起こらなかった」という予知夢現象に否定的な事例は、注意を引いたり記憶に残ることはほとんどありません。

このような認知バイアスのために、「関連性の錯誤」とも「相関の錯誤」とも呼ばれる認知の失敗が起きます。

実際には関連がまったく、あるいは少ししかない二つのできごとの間に、強い関連性を見いだしてしまう現象を指します。

私たちは、目立ったことが二つ続けて起こると、単にその二つのできごとが目立つという理由だけで、両者の間に関連性があると判断することがよくあるのです。

確証事例だけをいくら列挙したところで、夢と事件の間に関連性があると判断することは論理的にできません。

二つのできごとに本当に関連があるのかどうかを正しく判断したかったら、夢を見なかったときの事故や、事件がが起こらなかったときの夢など、四分割表のマスの割合を考慮しなければなりません。

肉親や友人の夢を見て不安に駆られたとしても、実際にその人たちに何事もなければ、そんな夢はすぐに忘れてしまいます。そんな予知夢を見たのに何も起こらなかった例や、見ていないのに不幸が起こったという、予知夢の反証事例は膨大な数があるはずですが、そうした例は雑誌やテレビで報道されることも、記録に残ることもありません。

私たちが予知夢に関してかたよった信念をもっているとすれば、それは目立つできごと相互に関連性があると考えてしまい、反証事例を考慮せずに確証事例のみで判断するという思考バイアスに大きな原因があるのです。

人やできごとなどを集合で考えたときに、多数の要素が備えている特徴に比べ、少数の要素に特有な特徴はより目立って認知されます。

たとえば犯罪など、まれに起きるできごとは、よくある日常的なできごとに比べてはるかに目立ちます。同様に、社会では多数派の集団よりも少数派の集団のほうが目立ちます。

このような認知バイアスによって少数派の人種や集団と否定的な特性の間に関連性を見いだすことが、偏見やステレオタイプを生む原因の一つなのです。

このようなイメージの固定化は、一般に、性差別や人種差別のような偏見を生み出すもとになります。「女性は運転が下手だ」「外国人には犯罪者が多い」「若者は礼儀を知らない」といった特定の社会集団に対する偏見は、ステレオタイプにもとづくもので、根拠の不明確なものが大部分です。

「動物が異常な行動を示した」「その後で地震が起こった」という二つの事実から「動物が地震を予知した」と推論するのは正しくありません。双方が起こった事例だけに注目して、関連性の錯誤が生じてしまう典型的な例です。動物の異常行動と地震という二つの事象の関連性を論理的に推論するのなら、異常行動の有無を(地震の前に)判定して、地震の有無をチェックする四分割表を作らなければなりません。

肝心な点は、両方が起こったときは強く印象に残るのに対し、起こらなかった場合は容易に見逃してしまうことです。

広い範囲で見れば、イヌやナマズの大暴れは、おそらく毎日のようにどこかで起こっているに違いありません。一匹のイヌが一生に一度だけ、たとえば変なものを食べたり、虫が耳に入ったりで異常に暴れたとしても、その地域にイヌやネコが何千、何万匹もいることを考えれば、毎日何匹かは、必ず異常な行動をしているはずです。

たとえば、1998年の東京都の調査では、都内にネコが約116万匹いると推定されています。ということは、仮に、一匹のネコが10年に一度だけ異常に見える行動をしたとしても、そのような異常行動は、都内で毎日300匹以上のネコがしていることになるのです。

そして、いくらイヌやネコが暴れても、その後に地震がなければ、それは忘れられてしまいます。ところがたまたま地震が起これば、そのイヌやネコしか見ていない飼い主は、地震予知能力があったに違いないと思うのは当然のことです。

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【思考2 確率推論】

第5章 それは本当に「めったにないこと」なのか?

偶然でら起こらないようなことが起こったら、そこに偶然以外の要因が働いていると考えるのは、科学的な探究方の基本です。それを念頭に置いて、疑問の後半、「夢で見た人に同時に不幸が襲うなんて、偶然ではありえない」という判断について、じっくり考えてみたいと思います。

予知体験(もしくはテレパシー体験)は、本当に「偶然では起こりえない」できごとなのでしょうか?

たしかに、知人が死んだ日に、それと知らずにその人の夢をみる確率は、たいへんに低いと思われます。そんな体験をすれば、夢にはなにか不思議な力があると信じるのも当然でしょう。

しかし、この「夢で見たー死んだ」以外にも実にたくさんのできごとが、不思議な現象と解釈される可能性があるのです。

たとえば、その夢に知人は直接出てこなくても、ともに過ごしたときの風景など、その人を連想させるものなら、やはり不思議な体験と受け取られるでしょう。さらに、夢でなくても、ふとその人を思い出すさまざまなできごと、たとえば思い出のカップが割れても、やはり同じ思いにとらわれるに違いありません。急に胸に痛みを覚えたとしても、下駄の鼻緒が切れたとしても、それは後からその人の死と関連づけられて解釈されるはずです。

さらに、不吉な予兆があったとき、別にその人が死ななくても、病気で倒れるとか、事故で重傷を負っても、これは不思議なできごとになります。

そのうえ、結びつけられる二つのできごとは、時間的にまったく同時ではなく、前後に数日から一週間くらいは幅を取ることができます。そうなるとさらに多くの組み合わせが生まれることは容易に想像できると思います。

一人の友人についてこれだけある可能性が、友人知人の数だけ掛け合わされるのです。

あなたの身のまわりで、後になれば不吉な予兆と思うようなことは、日常的に起こっているはずです。何か事件が起きると、そうした日常的なできごとの中からふさわしい予兆が選ばれて、不思議な体験と解釈されます。

しかし、事件といえるようなことが何も起こらなければ、日常的なことはすぐに忘れられてしまいます。

「私たちがいかに大量のできごとを体験しているか(いかに多くのことを考えているか、いかに多くの人々と出会っているか、などなど)を考慮に入れると、長い一生のうちには、数多くの不思議(と解釈されるよう)な偶然の一致が起こったとしてもむしろ当然なのである」

【予期と認知バイアス

初対面の人の印象を作り上げていく際には、相手に関する情報を客観的に公平に評価するのではなく、あらかじめもっている予期にそった情報収集が行われてしまうことが示されました。

私たちは、予期にそった情報収集をすることで、入手した情報が自分の予期を証明していると錯覚してしまうのです。

予期にそった情報は記憶に残りやすいという記憶バイアスも知られています。

こうして、さまざまな情報の中きら予期を支持する証拠だけが強く認知されることで、偏見やステレオタイプといったものが強化されていきます。

実験は「教育評価法の研究」という名目で行われ、参加者は、小学校四年生のある女の子のビデオを見て、その子の学力を判断することが求められました。

最初に低学力を予期した人と高学力を予期した人では、すべての項目で評定にはっきりと差が見られました。すなわち、すべての項目で高学力予期群の方が能力を高く評定したのです。これは与えられた予期情報どおりに女の子の学力が評定されてしまったことになります。

高学力の予期をもった参加者は、女の子が難しい問題に正しく答えた場面をよく憶えていることがわかりました。つまりビデオの雑多な情報の中きら、自分の予期の正しさを裏づける情報が選択的に認知され、逆に反証となる情報には注意が払われていなかったのです。

ステレオタイプの強化

ある信念をもつ(たとえば超能力は実在するとか、血液型性格判断は正しいとか)ようになると、その信念にそって「起こりうること」を予期し、それにしたがって新しい情報を探索し、解釈しようとする傾向が生まれます。

その結果、予期に肯定的な情報は最初の信念を支持するものとして強く認知され、それが信念に対するポジティブ・フィードバックを形成します。そして、その信念にしたがって現実を見ることで、このループは次第に強化されていきます。

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子どもがほめられるときは、何かとくによいことをしたりよい成績を取ったときでしょう。もしその子が、よいこともすれはわわるいこともするふつうのこなら、よいことをした後にはわるい状態へ回帰する可能性が高いのです。一方、子どもが叱られるのはとくにわるい状態のときで、その後は何もしなくてもよい状態へ回帰するのが自然です。

そこで、ほめた後にはわるくなる、叱った後にはよくなる、という具体的な体験をもちます。

この体験が、叱ることへの信頼を生み出した原因と考えられるのです。

自分が感じていることはどのような知覚処理の結果なのか、自体がどのように記憶を呼び出しているのか、結論にいたる推論はどのような道筋をたどっているのか、それは適切な推論なのか。こうした自分の認知を、もう一人の自分になったつもりでとらえ直すことがメタ認知です。

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