科学隊

ささやかな科学と哲学のバトンを渡すための情報交換の場所です。

<a href="http://secret.ameba.jp/frederic-chopin/amemberentry-11824773724.html">『疑似科学入門 / 池内了』を読了</a>

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疑似科学を三種類に分類し、それぞれについて問題点を洗い出すことにした。それらは以下の通りである。

《第一種疑似科学

現在当面する難問を解決したい、未来がどうなるか知りたい、そんな人間の心理(欲望)につけ込み、科学的根拠のない言説によって人に暗示を与えるもの。これには、占い系(お神籤、血液型、占星術、幸運グッズなど)、超能力・超科学系(スピリチュアル、テレパシー、オーラなど)、「疑似」宗教系がある。主として精神世界に関わっているのだが、それが物質世界の商売と化すと危険性が生じる。

《第二種疑似科学

科学を援用・乱用・誤用・悪用したもので、科学的装いをしていながらその実体がないもの。これには以下のようにいくつかの種類があって、物質世界のビジネスと強く結びついている。

(a) 科学的に確立した法則に反しているにもかかわらず、それが正しい主張であるかのように見せかけている言説。永久機関ゲーム脳が典型的。

(b) 科学的根拠が不明であるにもかかわらず、あたかも根拠があるような言説でビジネスの種となっているもの。、マイナスイオン、健康食品などがある。さらに、アドレナリン、クラスター水、活性酸素などの化学用語、フリーエネルギー、波動といった物理学用語の乱用も目立つ。これには、権威がありそうな学者を動員して信用させる手口が特徴的だ。

(c) 確率や統計を巧みに利用して、ある種の意見が正しいと思わせる言説。一般に、人々は確率や統計の概念に疎いから、そこに付け入るのである。各種の世論調査も使いようによっては疑似科学になってしまう。また、月齢と交通事故の相関など、見かけ上の相関関係を因果関係として安易に結びつけ、事実誤認させる方法もある。積み重ねられた経験から諺として言い伝えられてきて、その中には捨てがたいものも多いが、迷信の類も多い。

《第三種疑似科学

複雑系」であるがゆえに科学的に証明しづらい問題について、真の原因の所在を曖昧にする言説で、疑似科学と真正科学のグレーゾーンに属するもの。この場合、科学的にはっきりと結論が下せないのだから、一方的にシロかクロに決めつけてしまうと疑似科学に転落してしまう。先に述べた環境問題や電磁波公害のほかに、狂牛病、遺伝子組換え作物、地震予知環境ホルモンなど、今社会的な問題ちなっていることの多くがこの範疇に入る。

一つの事実だけを針小棒大に取り上げてシロクロを付けたがるのだ。

その謳い文句は「科学には限界があり、まだ解明されていない事柄がある」というもので、近代科学を超えた「超科学」だと臆面もなく言い立てる。科学な限界があるのは事実だし、その限界に挑戦して研究を続けているのが科学者なのである。しかし、超科学の主唱者が述べているのは、数々の実験や理論によってすでに解明されている範疇のものであり、その主張は過不足なく否定されている事ばかりなのだ。

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人間には、体験によって「情報を得る」という段階と結果的に「信じる」という段階の間に「認知」という情報処理過程があり、その過程で生じるさまざまなエラー(錯誤)のため誤った信念に導かれる可能性があるのだ。また、エラーだけでなくバイアス(偏向)もある。真実を見ることを無意識に避け、知らず知らずの間に別の判断・思考ルートを採ってしまう心理的傾向のことだ。

人間の認知行為は。「知覚」(見る、聞く、言葉を理解する)、「記憶」(短気と長期がある)、「思考」(学習、記憶との照合、論理のつながり)、「判断」(全体を統合して推論する)という、四つの情報処理部分から成り立っている。

知覚エラー

私たちは、外界からの刺激(例えば、眼に入る光)を得て、その情報処理を行って(物の像を得て)対象を認識する(何があるかを知る)。この当たり前の行為において、脳では二つの無意識の作用が起きている。

一つは、入力から特徴を抽出し、情報の要点だけを取捨選択する作用である。目で見ているものや耳できいているものを全て認識しているわけではなく、ある特定のものを選んでいるのだ。「認識のボトムアップ」である。目や耳から入った情報にフィルターをかけているとも言える。

そのとき同時にもう一つ、「スキーマ」(個人が経験を通して形成してきた外部環境に対する総合的知識)と照合して対象の姿を再構成するという作用がはたらいている。外界の情報を解釈して認知内容に制約を与えているのだ。これが「認識のトップダウン」である。

既知のものか未知のものかをまず選別し、既知ならその知識に当てはめ、未知ならいっそう注意して何であるかを知ろうとする心的作用のことだ。

これら二つの逆向き(ボトムアップトップダウン)の作用が組み合わさって初めて「パターン認識」が可能になる、つまり知覚が完成するのである。とすると、二つの作用に何らかのエラーが発生すれば、当然知覚の変容が生じてしまうことになる。

人間の知覚の特性として「知覚の恒常性」があることを付け加えておかねばならない。外界をより正しく把握するために、あえて物理的に正しい知覚をせず、対象を自動的に変化させるように情報所処理してしまうことだ。例えば、盲点に投影された光は見えないはずだが、私たちはまわりの情報で補って連続した視覚像を得ている。

テレビを斜めから見ても像が歪んだようには見えない。暗くなったのに像はそう変わらず鮮明に見える。

視覚の恒常性があるからこそ見る行為がスムーズに行えるのである。

犯人とおぼしき人間を暗闇で見たとき、それが誰であるかを推定すると、実に細かなことまで目撃したように思えてしまう。実は見てはいないのだが、描像を当てはめるので見えたように錯覚するのだ。

これは人間の「脳」を理解する上で興味深い。

脳研究といえば、ひたすらミクロに脳の構造や機能を追うというイメージだったが、最近、情報学的なアプローチにも興味が出てきた。「知覚」「認知」という面から人間の脳を理解する。

例えば、脳は下手っぴな字でも、たいていは認識することができる。文法的に曖昧な文章や、言葉のニュアンスも認識することができる。また脳は、光の当たり具合や、顔の角度が変わっても、人間の顔を上手く認識できる。また、雑音の中でも円滑に会話をすることができる。

脳が行っているこのような高度な処理をソフトウェアで再現できれば、脳の機能を理解したことになるのではないか。

参照 連続聴効果

NTTが20m先の複数の声を収音「ズームアップマイク」開発、音源個別選択。超会議にNTT超未来研究所/Engadget 日本版

記憶エラー

本人は正しいと思っているが事実とは異なる情報を思い起こしてしまう場合があり、こうなると記憶は当てにならない。記憶の各段階で変容が起こるためだ。

思考バイアス

ある事件の犯人がAさんだろうという仮説を持てば、日常の振る舞いでも悪いところばかりを思い浮かべてAさん犯人説を肯定しようとする。

Aさんには合致しない証拠には目をつぶってしまうのだ。

「関連性の錯誤」に陥らないための推論の方法がある。Aという事柄(地震が起こった)とBという事柄(ナマズが暴れた)が相次いで起こった場合だけでなく、Aが起こらずBだけが起こった(地震は起こらなかったがナマズが暴れた)場合、Aが起こらずBだけが起こった(地震は起こらなかったがナマズが暴れた)場合、AもBも起こらなかった(地震も起こらずナマズも暴れなかった)場合よ、計四通りがどれくらいの頻度で起こったかをきちんと調べることだ。私たちは、AとBの双方が起こった場合のみを記憶しやすく、AまたはBが起こらなかった場合についてほとんど関心を払わないのである。

判断エラー

人はある事象を見たとき必ず何らかの信念(例えば、B型の血液型の人間は二面性がある)を持ち、その信念に沿って、「こんなことが起こるだろう」と予期し(彼はB型だから矛盾した行動をとるだろう)、結果を見たとき予期に合致するように選択的に解釈しようとする傾向がある(矛盾した行動のみを記憶する)。その結果、予期していた通りのことが起こったとしか見ないから信念がいっそう強められる。つまり、信念→予期→予期を強化するように結果を解釈→いっそう強い信念となる、というプラスのフィードバックがはたらき、ますます頑固に信じるようになるのだ。

例えば、女性ドライバーは運転が下手だという信念の持ち主は、そのような目で常にドライバーを見ており、実際に下手な女性ドライバーを目撃すると信念をいっそう強める。運転が上手な女性ドライバーがもっと多くいても記憶に残らず無視してしまうのだ。

このプラスのフィードバックによって、予期が結果を決めるだけでなく、予期したことが実現してしまうという逆転した状況も生まれかねない。先生が「この子はできが悪い」と思い込む(予期してしまう)と、どのような行動もできの悪さに結びつける。そのため、ますますできが悪いという解釈が積み重なり、(せっかく本人が努力していても目に入らず)結局その子どもは「落ちこぼれ」になってしまう。

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第二種疑似科学は、いずれも、背後に控える「科学」の実体を見極める訓練を私たちに求めていると言える。

まだその原理が明らかでなかった時代においては科学であったのだが、原理や法則が明らかになるにつれ非科学・疑似科学になった事例は多数ある。錬金術は十八世紀にいたるまで科学と見なされていたし、永久機関も長らく真剣に研究された。やがて、錬金術から化学、永久機関から物理学という本物の科学が生まれ、いずれも疑似科学であるとわかった。

確立された科学の原理をしっかりと理解していれば看破できる疑似科学は多い。

意味のある統計を得るためにはいくつかの条件を満足しなければならない。まず、ある一定数以上のサンプルが必要である。少ないとゆらぎ(誤差)が大きく一般的な傾向が言えないためだ。またサンプルに偏りがあってはならない。例えば世論調査では、男女、年齢、社会階層、学歴、職業、居住地域などを万遍なく選ぶ必要がある。それらが偏っていれば、特定の層の意見であるにもかかわらず、一般的な意見だと誤認してしまうからだ。

さらに質問項目や質問の仕方、回答の種類や回答欄の書き方が公正でなければならない。

統計をとる者の意図が露骨に現れているような質問・回答が公正でないのは確かだろう。結果を誘導することになるからだ。

「最近行った有識者への調査で、約8割が『今の内閣は、改革に後ろ向きである』と答えました。あなたは、今の内閣についてどう思いますか?」

「最近、この製品は<汚れが良く落ちる>と大阪で大人気ですが、あなたは使ってみたいと思いますか?」

結果の発表の仕方も恣意的であってはならない。例えば、賛成、どちらかと言えば賛成、どちらかと言えば反対、反対、わからない、の五つの回答欄が用意されているとしよう。このとき、賛成と反対の数だけでは賛成が多いが、「どちらかと言えば」の回答を加えると反対の方が多くなったりすると、発表者側の都合でなんとでも言えることになってしまう。「どちらかと言えば」欄を設定することによって、自分たちの意図を操作できるよう担保しているのである。

統計をとると平均値が出されるが、それが相加(算術)平均か調和平均か相乗平均かを言う必要があるし、なぜそれを選んだかを説明しなければならない。問題に応じて、どれを採用するのが適切かは異なるからだ。例えば、所得の分布に数少ない極端な金持ち層と数多くの低所得層があった場合、相加平均で所得を計算すると高くなってしまい意味がない。人数の多さが反映しやすい調和平均を算出するか、人数の半分になる所得で代表させる方が実態に近いのだ。分布に二つのピークがあるような場合、平均には意味がないこともある。例えば、大学入試では、非常に出来の良い集団と出来の悪い集団に分かれることがよくある。そんなときの相加平均は、最も数が少ない中間の値になってしまうのだ。

というふうに、統計には注意すべきさまざまな問題点がある。だから、統計をうまく利用すれば人を騙すことも簡単にできる。

ある薬を飲めば病気の死亡率が25%も低下した、という宣伝がなされたとする。それだけを聞けばいかにも効能がありそうに感じる。しかし、どういうからくりで確率を出しているかを吟味する必要がある。例えば、薬を飲んだ人間が患者1000人当たり30人亡くなり、飲まなかった人間は40人亡くなったとしよう。この場合、薬を飲むことによって1000人について10人少なかったのだから、1%だけ死亡率が減少したことになる(絶対リスク減少率)。しかし、これで薬の効能を言うには少なすぎる。そこで、薬を飲んで減少した10人を、薬を飲まずに死亡した40人で割って、死亡率を25%低下させたと言うのである(相対リスク減少率)。

割合で比較すべきところをサンプル数で比較することで結論が逆になることがある。村の70歳以上の人間のうち250人が喫煙者で280人が非喫煙者だから、喫煙は長寿に少しは影響するがたいしたことではないという言い方があった。しかし例えば、もともとの喫煙者が500人いて非喫煙者が400人しかいなかったのなら、その減り具合は圧倒的に喫煙者の方が多いのである。単に実数を比較するだけでは間違うことになる。同じような例で、子どもを虐待する母親の実数の三分の二は実母で、継母は三分の一しかいなかったというデータを発表し、「実母の方が危険」と書いた新聞記者がいた。しかし、虐待をしていない母親の数を比べると圧倒的に実母の方が多い。すると、割合から言えば継母の方が虐待確率は高いのである。

ある健康食品の宣伝で、戦後60年の間で、それに含まれる化学物質の摂取量が減少したというデータとガンにかかる人間が増大したというデータをグラフで示し、だからこそこの化学物質の摂取を増やすことが効果的であると説いていた。それだけを見ると相関があるが、これも直ちに因果関係を意味しない。ガンが増えた原因はさまざまであり、その化学物質の摂取が減少したためかどうかはわからない。ガン患者が増えたデータではなく、テレビやクルマを持つ家庭が増大したというデータだって同じ相関を示すのである。その場合は化学物質の摂取の減少とは関係がないとだれでも簡単に言える。

「相関関係と因果関係の混同に注意しましょう。二つの変数が相関関係あるということが、自動的に片方がもう片方の原因であることを示すわけではありません。地球温暖化1800年代から進行しており、海賊の数は減少していますが、海賊の不足により地球温暖化が起こっているわけではありません。」

「ガン患者が増えたデータではなく、テレビやクルマを持つ家庭が増大したというデータだって同じ相関を示すのである」という文章は少々違和感を感じる。相関関係と因果関係の話はよくきくが、「相関がある」というのはそんな単純な話なのか。

僕が「相関がある」ときいて想い浮かべるのは、「Aが増えた時、Bも増えている」という単純な話ではなく、「変動するAを長期的に観測してデータをとり、[Aが増加した場合(かなりの割合で)Bも増加する]そして[Aが増加していない場合(かなりの割合で)Bも増加することはない](データ数は100)」くらいの状況だ。

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現代の科学を装った「神話」は、仮説を性急に応用したものが多く、眉に唾をつけねばならない。例えば、「神経神話」と呼ばれる幼児の脳の発達に関わる三つの神話がまことしやかに語られている。「右脳教育」「早期教育」「三歳までの豊かな環境」の三つである。これらはいずれも仮説であり、まだ実証されていない。というより、実証することがほとんど不可能である。なぜなら、厳密な対照実験(これらに当て嵌まらない子どもたちをも育てて比較しなければならない)が行えないし、そもそも人間の発達を、どの段階で測るのか(測れるのか)疑問であるからだ。その意味では、この「神話」は科学的とは言えない。実証も反証も不可能なのである。

「実証することがほとんど不可能である。」「厳密な対照実験が行えない。」「その意味では、この「神話」は科学的とは言えない。」について。

「厳密な実証実験ができなければ科学と言えない」というのは誤り。実験で再現できない現象もある。実験による実証は科学の手段の一つに過ぎない。

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地球が複雑系であるためち原因や結果が明確に予測できないとき不可知論に持ち込むのではなく、人間や環境にとっていずれの論拠がプラスになるかマイナスになるかを予想し、危険が予想される場合にはそれが顕在化しないよう予防的な手を打つべきなのである。それな複雑系の未来予測不定性に対する新しい原則で、「予防措置原則」と呼んでいる。たとえその予想が間違っていたとしても、人類にとってマイナス効果を及ぼさない。

地球は典型的な「複雑系」だから、ある事象が未来にどういう影響を与えるかは定かでないことが多い。そこで地球環境問題の否定派は、それだけを見れば真っ当な意見を述べる。(あるいは、真っ当な点のみを取り上げる。)

ある伝染性の病気の病原体を特定するためには「コッホの三原則」を満たさねばならない。それらは、(第一原則)その病気に罹った個体から必ず同じ病原体が検出できること。(第二原則)その病原体が分離・精製されること、(第三原則)それらを他の個体に感染させれば必ず同じ病気を発病し、そこからやはり同じ病原体が見いだせること、である。ところがBSEの牛からは必ず異常プリオンが検出されるが、それを精製してマウスの脳に感染させても発病しないのである。だから、第一、第二原則は満たしているが、第三原則は満たしていないことになる。こらがBSEプリオン説に関する重大な疑問となっているのだ。

現時点では、BSEに罹るという事実と異常プリオンが増殖しているという二つの事実が相関していることだけが確立しているのだ。そうすると、三つの可能性がある。(A)異常プリオンの増加が原因でBSEはその結果、(B)BSEが原因で異常プリオンの増加はその結果、(C)別の要因が原因で異常プリオンの増加もBSEはその結果、である。

もし異常プリオンが病原体でないなら、今神経質に牛の脳や脊髄(異常プリオンが溜まっている場所)を取り除いていることは無意味になってしまう。状況証拠に振り回され、「日本は神経質過ぎる」とアメリカから大きな非難を浴びることは確実だろう。しかし、私はこれで良いと思っている。「予防措置原則」で、疑わしい間はこれを禁じて安全が保証されるまでは待つという態度であるからだ。

一時「エイズはウイルス(HIV)感染のためではない」という反論もあった。これもコッホの三原則を満たさなかったためである。第一原則と第二原則を満たしたが、第三原則の感染実験ができないためであった。HIV(ヒト免疫不全ウイルス)という名がついているように、このウイルスはヒトにのみ特異的に感染する。サルやマウスで実験しても感染しないのだ。しかし、ヒトに感染させるわけにはいかない。コッホの原則を厳密に満たしていないことが主な理由となって、エイズは貧困が原因の病気であるとか、別の要因のためだという論が出された。しかし、不幸なことに、まさに人体実験同様なことが起こってしまった。血友病の患者さんに対して非加熱血液製剤を投与した事件である。この薬剤にはエイズ患者の血液から採ったHIVが混じっており、非加熱であるために生きたウイルスが混入していたのだ。

この事件からも「予防措置原則」の重要性がわかるだろう。コッホの三原則が満たされていなくても、危険が予想されるウイルスに対して予防することこ大切さである。科学的な根拠(コッホの三原則)ばかりを一面的に振り回すと、かえって問題を拡大させることになってしまうのだ。

疫学とは、問題(対象)を厳密に絞り込み、それに関係する人々に対してどのような影響があるかを、全く無関係の人々との差異を統計的に示すことで証明しようとする手法で、薬害・公害・食中毒・伝染病などの調査に大きな威力を発揮してきた。電磁波公害の場合、高圧電線周辺に家を持つ住人の送電線から自宅までの距離と磁場の強さ、自宅での滞在時間、白血病発症の割合などを調査し、それを他の地域の人間と比較し、有意な差があるかどうかを調べたのである。

しかし、綿密な疫学調査がなされ、日頃電波を浴びている電気事業労働者などの調査も行われると、ガン疾患率について有意な差異はないことが示された。

「強い電磁波を浴びている者の方が白血病や脳腫瘍に若干の増加は認められるが、それは別の要因(「混乱要因」と言う)でも説明できる」というものだった。統計的に有意な差異はないという結論である。そして、送電線付近に住む住民には貧困層が多く、それが若干の増加の原因(混乱要因)ではないかと述べている。

以前疫学調査をした人間に先入観や偏見があり、それが統計を狂わせたのではないかとも言われた。

『ご冗談でしょう、ファインマンさん』に書いてあった、電荷計測実験の例を思い出した。

-ミリカン博士は、ポタポタしたたる油滴を使った実験から、電子の電荷を計測しましたが、そうして出したその答が、実は完全に正しいとは言えないことは、現在なら誰もが知っているところです。彼は空気の粘性として少し不正確な値を使ったため、答えが少しばかりずれてしまったのです。ところでこのミリカンの実験の後に、続いてなされた電子の電荷計測実験の歴史をたどってみると、たいへん面白いことがわかります。

仮にこれを時間の関数としてグラフに描くと、まず最初の数はミリカンの出した答より少し大きい。次の数はそれよりまた少しだけ大きい。その次はまた前のものより少しだけ大きい、という具合で、最後にはかなり大きな数におちつくことになるのです。

それにしてもなぜこうして実験を重ねてきた連中は、正しい値はもっとずっと大きいことに初めから気がつかなかったのか。実はこの実験の歴史こそ、科学者の最も恥とすべき考え方を暴露しているのです。というのは、実験の結果出た数がミリカンのより大きいと、実験者は何かが間違っているのではないかとまず考え、その間違いを探しはじめます。探しているうちに何とかその理由を探しあてる。一方ミリカンの数に近い数がでれば、間違いを一所懸命に探すことはしない。つまり彼らは、ミリカンの数からかけはなれた数はすべて除外してしまったわけです。-

人間には体質の差があり、同じ量だけ電磁波を浴びても被害を受けない人がいれば被害を受ける人もいる。機械的な線引きをすると患者切り捨てになってしまう恐れがあるのだ。

松本人志が、喫煙の健康への影響について「うちの親父はヘビースモーカーだけど老いても病気一つせずにピンピンしている!」と言っていたのを思い出した。

当該企業が調査のスポンサーになっていたり、企業の金でサンプル集めをしたり、調査する科学者が企業の顧問になっていたりすると、その結果が正当かどうかの疑問が生じてしまうこともある。都合の悪い結果を公表しないとか、サンプルに偏りがありそうだがめいはくにわからないなど、データの偽造・捏造・人為的操作が可能であるためだ。かつて、タバコの害悪が論じられたが、企業寄りの科学者が問題なしのデータを出し続けて長い間決着がつかなかった。

企業や国や地方自治体寄りの学者の出した、企業活動や公共事業にとって都合が良い結果はすぐに信用しないことにしている。独立した第三者の調査を要求し、その結果を待ってからでも遅くないと思うのだ。

しかし、現実に起こっていることは、国の方針に都合の悪い疫学調査は無視し(あるいは研究費を出さずに潰してしまい)、都合の良いデータのみを取り上げて声高に言い立てることだ。

原発の敷地が安全な地盤であると判断しても、隠れている活断層があったり、想定以上の地震による揺れが起こったりすると、リスク評価の結果は破綻する。

リスク評価が破綻したときに使われる常套句は「想定外」である。この言葉は、リスク評価が安全性の評価と同じではないことを如実に語っている。

商売優先のあまりにリスク評価が甘ければ「想定外」の領域が広すぎて「何をかいわんや」である。テスト不十分なまま商品化を急ぐと第二種疑似科学と変わらなくなってしまうのだ。

生態系も「複雑系」であり、その反応は一筋縄で解釈できないことが多い。それを端折ると思いがけない災厄が生じかねない。

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あえて処方箋を書くとすれば、懐疑する精神を、いかに育て、いかに保つかにあるだろう。それには、幼い頃からの教育しかないと思われる。

マックス・ウェーバーが『職業としての学問』において、ゲーテの『ファウスト』にある「気をつけろ、悪魔は年取っている。だから、悪魔を理解するためには、お前も年取っていなければなら」という文章を引いて、(教養)教育の要諦を述べている。

予防措置原則の誤った適用には気をつけねばならない。19世紀から20世紀にかけて、遺伝学の生半可な知識から、犯罪者や障害者やハンセン病患者を遺伝的に劣ったものとして「予防的」に隔離したり断種したり迫害したりした歴史があるからだ。優生学や骨相学もその範疇に入るだろう。いっさい人権を配慮せず、権威主義パターナリズム(父権主義)が未成熟な科学を人々に押し付けたのであった。予防措置原則が疑似科学化したと言えよう。

第三種疑似科学への処方箋として錦の御旗のように予防措置原則を持ち出したのだが、それについて検討すべき余地が多く残っている。

予防拘禁や予防戦争となると安全のためにと称しておぞましい事態を招く恐れがある。

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