ヒステリック懐疑
懐疑を深めていくと、数学以外の学問は信じられなくなる。
科学の述語は「前提」だ。
科学的に考えるということは、前提となるものに照らし合わせて論理的に判断するということだ。
数学の場合は、全てが人間の作った概念なので、前提となる公理も自由に設定でき、閉じた体系が作れる。
しかし、自然科学の前提は観測結果なので、閉じた体系ではない。
閉じた体系でないというのはつまり、1万回の観測結果を説明できる法則を作っても、1万1回目にはその法則に反するような観測結果を得てしまうかもしれないということだ。
前提が揺らげば、理論そのものも揺らぐ。
有限個の公理とロジックだけで構成される数学とは異なり、自然科学には、観測結果から“普遍的な”法則を導き出す方法論はない。
必ず推論が入ってくる。
運動方程式、ケプラーの法則だって、「法則」だとかカッコつけて言っちゃってるけど、何万回と観測した中で「この観測結果からいうとこんな感じの法則ならいけんじゃねーの?」ってやっているだけだしね。
雰囲気。
空気読んだだけ。
もっとわかりやすい例を出すと、ニュートンはリンゴが地球に落ちるのを見て万有引力の法則を思いついたらしいけど、次に見るリンゴがちゃんと地球に向かって落ちてくれる保証はない。
天高く舞い上がっていくかもしれない。
もしそんなことが起こったら…
物理学は…
\(^o^)/
(まぁこれ、自然科学の理論は今までに起こった現象が「うまく説明できる」だけで“真理”ではない。ということの切り口を変えただけなんだけどね)
自然科学はあくまで「仮説」にすぎない!!
しかし!さらに懐疑を深めていくと数学さえも信用できなくなる(かもしれない)。
数学の根幹となる「ロジック」が明日には変化してしまうかもしれないからだ。
(というより我々の思考回路が変化してしまうと言ったほうがいいか)
数学が誰か一人の頭の中の空想とならないのは我々が
「AがAである」
というロジックを共有しているからである。
しかし、ある日突然、我々が
「AがAでない」
と思い始めたら…
数学は…
\(^o^)/
「論理さえも公理の一つだ」という言い方もできるかもしれない。
A=B かつ B=C ならば A=C
というのは誰にきいても納得だろうけど、これを認めないという人が現れるかもしれない、ということだ。
■ まとめ
自然科学の理論は、永遠に仮説でしかない!!