考えろ考えろマクガイバー
伊坂幸太郎の『魔王』が、「しばらく小説は読まない」とかほざいていた僕を、ぐいっと小説の世界に引き戻した。
伊坂幸太郎の小説には、彼の感じる世の中のおかしな部分がちりばめられている。
『魔王』では特にそれが顕著だ。
しかし、そういうものが深刻さを吹き飛ばすように軽快に語られる他の伊坂幸太郎の小説とは違って、この作品は重く、のしかかってくるような雰囲気があった。
自分で物事を考えないために、感情に流される大衆の浅はかさ。
集団心理の恐ろしさ。
そういうものが、切迫感をもって描かれている。
この小説に登場する犬養という人物は、単純な悪役ではない。
少し読めば、犬養は当然のことをやっているだけじゃないか、と思わされる。
責任をしっかり負い、自分の利益は二の次。
選挙で大勝した時も、「これから国のためにやるべき責任を考えたら、万歳などできるわけがない」と言ってのける。
「ムードに流されるな。」
「おまえ達のやっていることは検索で、思索ではない。」
犬養の言っていることは至極まっとうである。
犬養の存在そのものが、日本の無能な政治へのアンチテーゼだと感じる。
(「アンチテーゼ」とかサラッと使うとかっこいいな)
一方で、犬養は自分の目的のためには手段を選ばない男だ。
犬養という人物のやっていることは本当に間違っているのか?
伊坂幸太郎は、読者に自分の頭で考えることを迫っている。
ところで、今のネット上での風潮は、この小説の世界に酷似してはいないか。
ネットでは、外国人に対する偏見や差別が横行している。
(偏見だと分かっていてやっている輩もいるだろうけど)
一人だとどうせ何もできやしないだろうけど、彼らが大勢集まれば、それこそ外国人の家に放火して愉しんだりしないだろうか?
ネット上では中国が侵略してくるだとか核武装しろだとか騒がれてるけど、僕はネットの偏見ほうがよっぽど危なっかしく思える。
本当に、テレビの情報は間違っていて、インターネットに流れている情報は正しいのか?
本当に、その意見は自分でちゃんと考えた上でのものなのか?
本当に、風俗店で働いている女性は恥知らずで汚らわしい人なんだろうか?
考えろ、考えろマクガイバー。
ところで、ここまで社会的なことに絡ませて書いたけど、社会問題は伊阪幸太郎にとっては小説を面白くするネタにすぎないだろう。
松本人志も、お笑いのネタとして社会問題とかを使うことがあるけど、それは笑いのための手段なすぎない。
そして僕のブログもそう。
ネタになるからただ好き勝手に、思ったことを喚いてるだけで、真剣に考えているわけじゃない。
だから、おかしなこと言ってても、叱らないでね。
と、逃げ道をつくっておく。
■ 印象に残ったセリフ
兄貴、俺さ、「今まで議論で負けたことがない」とか、「どんな相手でも論破できる」とか自慢げに話している奴を見ると、馬鹿じゃないかって思うんだよね。
相手を言い負かして幸せになるのは、自分だけだってことに気づいてないんだよ。理屈で相手をぺしゃんこにして、無理やり負けを認めさせたところで、そいつの考えは変わらないよ。場の雰囲気が悪くなるだけだ。
この国の人間はさ、怒り続けたり、反対し続けるのが苦手なんだ。
馬鹿でかい規模の洪水が起きた時、俺はそれでも、水に流されないで、立ち尽くす一本の木になりたいんだよ。
でたらめでもいいから、自分の考えを信じて、対決していけば世界は変わる
伊坂幸太郎の言葉はスタイリッシュに物事の真理をついている。