自我誕生の瞬間
<意識><自我>というものが進化のどの時点で生まれたのか、というのは僕の七不思議の一つだ。
とりあえずは「人類は<意識>をもっている」という前提で話を進める。
すると、
1.そもそも“初めから”<意識>は存在していて、ミジンコとかの時点でもすでに<意識>は存在している
2.生体構造が複雑になっていく過程で<意識>が生まれた
の2つに分かれる。
仮説1は、じゃあミジンコ以前は?となって、タンパク質とか原子も<意識>をもってるんだ!みたいなことになってオカルトになるから却下。
コンピュータにも、そういうシステムを組み込んでやれば<意識>を持たせることができるんじゃないかと思っている僕は、仮説2の方がしっくりくる。
だとするとこんな感じになるわけだ。
…<意識>が無から有となった瞬間がある…!?
ね?気にならない??
(ゼロじゃなくなる瞬間っていっても、いきなりぶわっと出てくるんじゃなくて、ぼんやりと現れてくるのだろうけど)
<意識>は生物進化のどの時点で生まれたのか、そもそも<意識>とは何なのか、生涯をかけて考え価値がある非常に興味深いテーマだ。
ところで、上のグラフを書いてて気付いたんだけど、よく考えてたら進化は連続的じゃないから進化は連続関数で書けないんじゃないか。(近似的には連続とみなせるだろうが)
上のグラフは正確には離散的な関数で書かれるべきだ。
このまま進化論の話を続ける。
進化論について、誤解している人がいるかもしれない。
上でも書いたように、進化は連続的な変化ではない。
漫画「バキ」の愚知克己VSピクルでの、マッハ突きのトレーニングのところでも誤解を招くようなとんでもない理論が登場していた。(まぁ面白いからいいけど)
進化論は、自然淘汰の理論だ。
進化は離散的な変化だ。
高いところの葉っぱを食べたくてキリンの首が伸びたわけじゃない。
たくさんの中から首が長い個体が出てきて、それが生き残っていった結果、あんなんになったのだ。
それぞれ変異を持った個体がおびただしく生まれてきて、そのうちの有利な形質を持ったものが生き残る。
それを気が遠くなるほど繰り返していくと、目に見えて変化が起こっていく。
パラパラマンガのようにアニメーションが動いてく感じを思い浮かべるとわかりやすい。
柔軟体操みたいに体が柔らかくなっていくイメージは誤りだ。
進化は連続的な変化ではない。
(でももっと言うと、全ては化学反応によって起こってるから結局は連続なのかもしれないが)
しかし、本当に自然淘汰によってのみ、原始的で単純な生物が、現在の高等な生物へと進化できるというのか?
進化論の生みの親であるダーウィンは次のような言葉を残している。
― 目の異なった距離に焦点を調整し、光の許容を調節する目の驚くべき装置、および色彩錯乱しないように修正する装置が自然淘汰によって形成されるなどと考えるのは、真にとんでもなく不合理のように思える ―
この世界はまだまだ不思議に満ちている。