意識をめぐる考察
最近、 <意識><自我>というものについて、気になっています。
マイブームは
「自我について考えること」
おお。
なんかかっこいいぞ。
<意識>ってなんなんだろ、ホント。
少し前に、読み取り機能が<意識>にあたるものではないかと考えたことがあった。(→無機高等生物)
でもこれ、よく考えたら全然ダメだ。
これだけだと、外の世界を認識するのと、自分の<意識>を認識するのとが、同じような感じで説明できる、ということを言っているにすぎない。
結局、最終的に認識している<主体>の正体がわからない。
これは我々が、「私は自我をもった生物か?」という問いを発したら「Yes」という信号を送るようにプログラムされていて、自我があるように思わされているにすぎない、としても同じだ。
誰かに「思わされている」<主体>は一体何なのか?
これこそ、「我思う、ゆえに我あり」である。
「<意識>はどのようにして生まれてくるのか」
そもそもこれ自体、意味のある問いなんだろうか?
サッカーボールはなぜ存在しているのか?また、どのようにできているのだろうか?
原子はどのようにできているのか?
中性子はどのようにできているのか?
クォークはどのようにできているのか?
つきつめて考えれば考えるほど、「どのようにできているのか?」という問いが無意味なものに思えてくる。
初めっから、「ある」ものは「ある」
それ以上もそれ以下もないんじゃなかろうか?
それとも、この世界や物質が、「無から生まれた」とでも言うのか。
<意識>ってなんなんだろう。
考えれば考えるほど、真実から遠ざかっていくような気がする。
なので、ちょっと肩の力を抜いて考えてみようと思う。
次回から<意識><自我>、そして「自分とは何か」ということに関する思考実験をしてみる。
次回は「記憶」を考える。