ゆめにっき
前回(→夢の中の男)に続いて夢の話をする。
夢は不思議だ。
夢の中の“自分”は、現実の“自分”と同じように、夢の中でいろいろな目に遭って、いろいろ感じる。
この「感じる」というのは喜んだり悲しんだりだけじゃない。夢の予想外の展開に驚いたり、後悔したりもする。
でもこれ、ちょっと不思議じゃありませんか?
夢を作り出しているのは、自分自身の脳のはずだ。
夢のシナリオを書いているのは、自分自身の脳のはずだ。
夢の中の出来事は、あくまで自分自身の脳による演出のはずだ。
「熱い」とか「気持ちいい」とかいう感情はいいが、「驚く」というのはどういうことだろう?
どうして自分自身で作りだした話に驚くのだろう?
ということが書かれている興味深い記事があった。
(→夢のシナリオは誰が書く/御坊哲のおもいつくまま)
その後の展開が用意されているにもかかわらず、夢の中の自分は本気で驚く。
(「結末があらかじめ用意されていなければ、夢の話がスムーズな展開にならない」という点が重要)
たしかに不思議だ。
自分で撮った映画の展開にドキドキする映画監督とはなんぞや。
これについて、考えたことを書いてみようと思う。
夢に驚く自分。
このことは、夢の中の自分に主体性があるということを示しているのではないか、と僕は思う。
「夢の中の自分に主体性がある」というのは、夢を見ていろいろ感じている“主体”が脳中に住んでいるといった感じだ。
映画の例えでいくと、脳内にシアターがあって映画が上映されているとして、映画が夢で、そこで映画を観ている観客が“主体”にあたる。
う?ん、ちょっと伝わりにくいか。
もうちょっと具体的に、脳科学的に説明すると、
「夢を見せる働きをする脳の部分」と、「本気で驚いて『え!?ちょっと何それビビるんだけど?!!ありえな?い!!』と思っている脳の部分」が別なのではないか、ということだ。
この「本気で驚いて『え!?何それびっくり!!』と思わされている脳の部分」が主体にあたる。
つまりは、夢という映画を観ているのは、映画監督ではなく、映画の内容を知らずに観にきている観客というわけだ。
だから映画の予想外の展開に驚くのは不思議ではない。
一方で、こんな考え方もできる。
「本気で驚く」のが自作自演だとどうしていけないのか。
脳が引き起こす体験の一つに「本気で驚く」といものがあって、単にそれが再生されただけだと考えればよいではないか。
記憶というのは、「ある体験をした時に電気信号が流れた脳の神経回路が保存される」ということだと本で読んだことがある。
それならば、「記憶を再生する」というのは、その保存された回路に、「体験した時と全く同じように電気信号が走る」ということなのではないか。
だとすると、記憶の再生である夢を見るということは、普段の体験しているのと変わりはないということになる。
(目や鼻を使っていないだけで、脳に電気信号が流れているという点で同じ)
だから、夢で驚くというのは別に不思議なことじゃなくて、夢で「驚く」という体験が再生されたにすぎない、と考えられる。
この場合は、夢の中の自分の主体性は失われる。
この考え、どっちが正しいんだろうか。
どっちも間違ってる気もする。
いずれにしろ、夢は不思議だ。
そういえば前、「俺は、夢を見てる時『あっ!!これ夢だ!!』って気付く時がある」とか言ってた友人がいた。
いったん夢だって気付いたら、夢の中で自由自在に行動できるらしい。
夢が思うがまま。
これウソでしょ。
本当だったら羨ましすぎるだろ。
なんなのその能力。
くれよマジで。
僕ならすごく有意義に使える。
馬場典子アナが夢に登場させたい。
抱かれて甘えたい。
抱かれたら幼児退行する。
→新陳代謝の男へ続く