<a href="http://secret.ameba.jp/frederic-chopin/amemberentry-11914491493.html">アニメ月間 『電脳コイル』</a>
腰の調子が良くなく、ずっと寝転がっていたため、アニメを見ていた。
まずは、『ひぐらしのなく頃に』『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』『Steins;Gate』を見返し、『電脳コイル』を視聴。
電脳コイル、とても面白かった。
ヤサコが「本当のものとも何か」ということを自問し、自分なりの答えを見つけるシーン。
そしてデンスケと再会を果たすシーン。
そしてイサコが弱さと決別するシーンでは泣いてしまった。(勇子の勇は勇ましいの勇!)
※以下思いっきりネタバレあります
『電脳コイル』というアニメを教えてくれた方のブログから引用。
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「電脳コイル」のデンスケに魂はあるか [2008年07月15日(火)] /「実存浮遊」から柔和な路上を歩き瓦解した世界に埋没する
ところで、「人間らしいプログラム」ってなんでしょう。
人間とロボットの違いは何なのか。
どうして我々はロボットに人間らしさを感じる事ができるのでしょうか。
哲学的な話になります。
「人間に対して人間らしさを感じるのはなぜか」
目の前の人物と対話をする。
僕からは目の前の人物が、人間にしか見えません。
皮膚の向こう側に何があるか見えないし、心があるか見えないし、そもそも僕の妄想である可能性もあるけど、それらすべての可能性を踏まえたとしても、端的に無駄です。
なぜなら、目の前の人の皮膚の向こうは金属や回路が存在するかも知れないが、僕には筋肉や血管にしか見えないホログラム的な何かがあるかも知れない。
「心があるのか?」と問えば、あくまでプログラム的に「わたしには心があります」と答えるでしょう。
僕の妄想だった場合、別の誰かから見たら気違いな僕という事実があるだけで、僕にはちゃんとはっきり目の前の人物と会話しているとしか認識できません。
つまりこういう事です。
その人が誰かに(または何かに。あるいは何も無くても)人間らしさを感じたら、その人にとっては揺るぎ無く人間にしか見えない、という事です。
古い空間でヌルに囲まれたヤサコと電脳犬デンスケ。
ヤサコを守る為にヌルに咬み付くデンスケは、そのまま電脳データを消失します。つまりは死。
(後日、小此木家に「メモリアル」と呼ばれるデータが送られてくる。電脳ペットの死後、画像データが送られてくるサービスらしい)
ヤサコは小さい頃、すでに亡くなったおじじからデンスケをもらいました。
デンスケを追って電脳コイル現象に遭遇した幼女ヤサコは、電脳体となって電脳世界に存在していたおじじに会います。
おじじは実体に戻る為の案内をデンスケに託します。
「ヤサコを守るんじゃぞ」とプログラムされて。
そう。自らの命と引き換えにしてまでヤサコを守ったのは、おじじのプログラムでしかありません。
データを消失したデンスケはイリーガル化し、犬のような形をした黒い物体になってしまいました。
ヤサコのデータも消失しており、ヤサコが近付こうとしても警戒しています。幼女ヤサコとデンスケが初めて会った時のように。
電脳体のまま「古い空間」にいたヤサコは、デンスケを初めて抱きかかえる事ができ、初めてデンスケの柔らかさや温もりを感じる事ができた。
実際に目に見えるものが大切なのか。
実際に触れないものは大切ではないと言い切れるのか。
心が大切だとして、そもそも「心」って一体なんだ?
電脳プログラムでしかないデンスケ。そしてさらに、アニメーションでしかないデンスケ。
二重に生物性の断絶があるのにも関わらず、どうしてもデンスケに魂があるようにしか感じられない。
長々と書いてきたが、もっと単純で、もっとわかりやすく、もっと幼稚な質問があった。
「アニメの電脳犬の行動で泣く人と、アニメでしかないと突き放せる人とでは、一体どちらが【魂】について深く考察しているのだろうか」と。
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電脳コイル 最終話「コイルオーバー」/BWSのダイアリー
結局、この物語の終着点は、ヴァーチャルの否定ではなく、他人を傷つけてしまう幼さや、別れの悲しみなど、人と人との繋がりによって生まれる心の痛みから逃れることの否定。他人の痛みを知り、自分の痛みを受け入れていくことで、子供は大人へと成長していくというものでした。クビナガとの別れを経験したデンパ、カンナの死を乗り越えたハラケン、心の痛みを信じて答えを得ようとしたヤサコ、兄の死の痛みを受け入れられずに奔走していたイサコ…。振り返ってみると、今までのエピソードも、全てこのラストを見据えて描かれていたことがよく分かります。あのおバカなヒゲ回でさえ「私達は早く大人の文明になりたかった。それには私達は幼過ぎた。」(=他人の痛みを知らない子供だった)と、作品のテーマに通ずる台詞が用意されているんですよね。普遍的でありふれたテーマでありますが、だからこそ万人に通ずる大事なメッセージなのでしょう。
また、イサコが痛みを恐れない勇ましい女の子なら、ヤサコは人の痛みを知ることが出来る優しい女の子と言ったところでしょうか。かつて、マユミの痛みを知ろうとしなかったヤサコは、人の痛みの方向へと自ら歩み寄る優しさを持った人間に成長し、人との別れを恐れていたイサコは、人との繋がりを恐れない勇気を持った人間に成長した。それぞれがそれぞれ、自分の幼さを克服し、名前に相応しい人間へと成長していく過程が描かれた物語だったのではないかと思います。
惜しむべくは、やはりヤサコが人の痛みを知る人間へと成長していく過程で、重要な存在であったマユミとの過去がおざなりに消化されてしまったことですか。マユミがヤサコを気にかけているエンディングのカットも、本来なら、マユミとのエピソードに数話費やし、ヤサコが過去の過ちを受け入れていく姿を描写することで、初めて意味を成すものだったのでしょうね。
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この人のブログは感想を読んでいて何度も笑わせてもらった。
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電脳コイル25,26話 感想&総括/思考の切れ端
イサコにとってプログラム上でも、兄はヤサコにとってのデンスケのように「本物」の存在だったのでしょう。だけど、自分を省みずに必死に気遣ってくれたヤサコのおかげで、人と人との絆・自分の名前という現実で生きる証を手に入れたため、イサコは帰ってきました。
現実への想いが無かった人間が、現実への想いを手に入れたことで、帰ってこれたという事です。
ラストシーン、すでに消滅したはずのデンスケを、メガネなしでヤサコもキョウコも一瞬だけ見ることが出来ました。そして、まやかしの存在だとわかっていてもその想いは本物だった、ということを考えれば、このラストシーンは電脳ペットは死んでも人の心の中・想いの中に生き続けるということを表し、そして見せかけのように思えるものでもそれに対しての本気の想いが存在すればそれは「本物」なんだということを、言い表しているのでしょうね。
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■アニメージュ2月号 電脳コイル特集/電脳コイルテンプレまとめ@wiki